2008年5月14日水曜日

「同じ」と「違う」(3)~「同じ」から「似ている」へ

対象を事物に絞れば「同じ」モノは存在しない、と言いました。

違和感ありますよね。「同じ」という言葉は非常にリアリティを持っている。実は同じものが存在しないことを認めると、人間にとって世界の根本的な成り立ちが怪しくなるのです。

確かに、「同じ」ものが存在するような気がする。では何が「同じ」なのでしょうか。

養老猛司氏は、テープに録音された音声としてのテキストと文書に書かれたテキストが同じであるという例を上げ、「同じ」なのは情報である。と述べました。情報それ自体は媒体に関係なく「同じ」である、と。

氏の意見に同意してもよいのですが、私としてはもう少し踏みたい。
「情報」という言葉にすると「同じ」かどうかは怪しいと思うからです。理由は簡単。例えば(何でもいいのですが)夏目漱石の小説を読んだとします。私が読むのと他の人が読むのとでは当然感想が違います。確かに文字の並びは同じといってよいでしょう。しかし、同じ本を読んだとしても同じものを見ていることにはならないのです。あるいは聖書。キリスト教者が読むのとそうではない人が読むのとでは、全く受け止め方が違ってくるでしょう。

私は、同じなのは「記号の配列」であると思います。厳密に言えば。

でも情報だって同じだろう。翻訳されたら記号の配列は変るが、相対性理論は日本でもアメリカでも同じ相対性理論だ。その通りです。しかし、この議論の前に私は「同じ」という言葉をもう少し緩めて「似ている」という範囲に広げたいと思っています。

アメリカの相対性理論も日本の相対性理論も、究極的には同じだと思います。

しかし、やはり人によって理解のレベルも着眼点も解釈も異なるはずです。ですから現実的には「相対性理論は相対性理論である」というよりも、人の解釈が「似ている」から「限りなく同じ」のグラデーションのどこかに分布する、というのが妥当だと思います。私と現役の科学者が相対性理論について語り合ったって、どこにもたどり着かないでしょうから。

次に「似ている」について、もう少し踏み込んでみましょう。

(続く)

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