2010年7月2日金曜日

河合隼雄/中沢新一「ブッダの夢」朝日新聞社

★★★★☆☆:中沢さん怪しいわ

面白いことは面白いけど、ずいぶん怪しい対談でした。中沢さんはぶっ飛んでるというか、アナロジーでどこまでも進んでしまうというか。河合隼雄さんはとらえどころがない。

ひろさちや「仏像でわかる仏教入門」講談社+アルファ新書

★★★★☆☆:仏像の種類、ポーズの意味がわかって面白い

2010年7月1日木曜日

続けたもんが勝ちだって思う

何につけても、続けた方が最後に勝つ。ってなことを思いますね。

学生時代、どれほど優れたスポーツ選手だったとしても、サラリーマンになった途端ストレスと過食でデブデブになって、体壊したりしてね。

ま、勝ち負けなんてのは、修羅道、地獄なわけで、仏教的には推奨されるようなもんじゃないですけど。

でも、続けてると見えてくるものがある。

ひたすら続けていると、不思議なもんで、空しさが見える。ああ。これほど努力したって空しいんだなあ。バカバカしい。そういうことがわかる。最初からバカバカしいと思ってやらないのと、一生懸命やって挙句にやっぱりバカバカしいと思うのとは少し重みが違う。バカバカしさこそが人生だよ。ありのまま。それこそがバカバカしさ。それこそが人生。だったら、ひたすら何かをやってみたらどうか。

バカバカしい。心底そう思いながら続けてみると、ストイックとでも言いましょうか。何やら清い心持が得られる。空しいと思いつつ、私は今日もこれ(ジョギング、腕立て伏せ、大人になって始めた楽器の練習、資格の勉強)を成した。そこには空しさとともに生きるために最低限の満足がある。反復できることに救いがある。明日も多分大丈夫だ。そう思えることが、無上の幸せなんだ。

そう。反復の裏に、奇跡がある。戦争がない。明日も仕事がある。それが奇跡なんだ。


いや、なんだか説教くさいな。むやみと現状肯定な感じになってきましたが、それは本意ではありませぬ。

ブログね。言いたかったのはブログ。

誰もコメントしなくても、どれだけの人が見ているかわからなくても、ひたすら更新してみる。

更新するほどに、これはこれで味のあるものなんだなあ、と思うわけです。

たとえるなら腕立て伏せ。バカと言いたければ言え。今週は100回。来週は101回。どこまで続けられるか分からぬ。続けたってボディービルダーになれるわけでもなし。お金をもらえるわけでもなし。でも、続けてみよう。そこに妙味があるんじゃないか。

ただひたすら続けてみる。そこに仏性があるのかもしれない。ただひたすら続ける、というそのことに。

  念仏とは、修行でもなく善でもない。

  なぜなら、阿弥陀様のはからいによって凡夫が念仏を唱えることができるわけであって、凡夫が自分の意思で念仏を唱えるわけではないのだ。

  同様に、念仏は善ではない。単なる阿弥陀様のはからいなのだ。(以上うろおぼえの「嘆異抄」)

とすれば、私がこうしてブログを書くことだって、阿弥陀様のはからいなんじゃないか、と。そりゃあ、地味なはからいかもしれない。でも、ブログを書いていなければ、私は仏教者にはならなかった(少なくとも、もっと後に仏教者になっていた)。だとすれば、こうしてくだらないブログを書くために頭をひねる毎日だって、また阿弥陀如来のはからいかもしれない、とそんなことを思ったりもします。

小林秀雄「モオツァルト・無常という事」新潮文庫

★★★☆☆☆:昔のインテリ

美文。しかし全体にディレッタントな雰囲気が鼻につきました。時代が違うのでしょう。おそらく現代は通俗化の時代。高尚な教養、美麗な文に反感を持った。モーツァルトなんか好きに聴いたらええやんけ。何が「疾走する悲しみ」だ。女の子を口説いてるわけじゃあるまいし。ケッ

「真贋」はおもしろかったです。よく出来た随筆。

田上太秀「迷いから悟りへの十二章」NHK出版

★★★★☆☆:良書

よい仏教啓蒙書です。ひろさんよりもアカデミック。前半、小乗の教えを現代に則して解説した辺りはなかなか上手いと思いました。

2010年6月30日水曜日

受験餓鬼か受験菩薩か

故あって(大した故じゃないんですけど)ある資格試験を受けようかと一念発起したんですけど、ふと気がついた。

受験を受けることってのは、仏教的にどうなんだろうか、と。

受験。試験。どうにも餓鬼の営みとしか言えませんね。

みんな、救われるんだ。善人ですら往生できる。どうして悪人が往生できないということがあろうか。親鸞聖人ならそう言います。

蜘蛛の糸だって、カンダタが蹴落とさなければ皆救われていたかもしれない。

でも、試験は違う。採点し、比較し、合格させ、不合格とする。

人間という愚かででどうしようもない生き物が、既得権益を持った、あるいは制度に与したそれだけの理由でもって、人を試し、点数を付けて、いい方から悪い方に並べて評価するわけです。お前はダメだった。お前はイイ。なんて。

そんなひどいことはない。

  合格した人間は甘い汁を吸い、不合格の人間はルサンチマンと貧困の海に沈む。(少なくとも合格/不合格の直後はそうね)

まさにあさましい修羅の世界です。争いの世界です。

花の世界にたとえてみましょう。花を面接して、評価します。これは楽しい。

桜。おまえは春の風情がよい。よって合格。しろつめ草。お前はどうも地面を這ってるし、地味だから不合格。

いやいや。そうじゃないでしょ。しろつめ草の草いきれなんていいもんだよ。懐かしい、小学生時代の夏休みに連れてってくれるよ。

みんな違ってみんないい。どの草だって、どの花だって、生きているだけで素晴らしいんだよ。

  まあキレイゴトですかな。

でも「みんなちがってみんないい」がキレイゴトだとすれば「お前合格、お前不合格」は余りにもキタナイゴト。

私はキタナイゴトよりキレイゴトの方が素晴らしいと思う。

となると、これは困った。資格試験などクソ喰らえ。そんな結論になるわけです。

困ったので考えを変えてみます。

たとえばイチロー。

    極端は承知。

イチローが、プロ野球、メジャーリーグという超競争社会で成功しているのはどうしてでしょうか。

才能、努力、そして縁。そのあたりが理由だ、とそういうことにしておきましょうか。

彼の成功を測るものさしは、あくまで野球のルールです。

しかし、彼の成功は素晴らしいと思う。なぜか。彼を個人的に知る訳ではありませんが、求道者というか「おれはおれ。他のことは知らないよ」というストイックな姿勢が感じられる。

つまり、他と競争しているわけじゃない。(たぶん)

周りを蹴落としているわけじゃない。

少しでも過去の自分を乗り越えようと努力している。

これは、やはり尊敬してしまうな、と思います。


さあ、困った。

競争自体は忌むべきものだ。人間の尺度で人間を評価する。不幸な人を作ってしまう。

でも、求道的な態度というものがあって、それは人をして尊敬せしむる。

ということはですね、周りは関係ないのだ、と。人の尺度など気にせず、ひたすら無意味な試験に没頭する、それは決して端的に否定されるべきものでもないのかな、と思うわけであります。(肯定されるべきでもないんかもしれないですがね。)

何とか肯定したいと思いつつ、とりあえず以上。

子供は授けられたんだな。そうとしか表現できない

子供ができるような行為を意図的にしているとやっぱり子供ができるわけです。たとえそんな行為をした覚えがなくても子供ができることがあって、そんな時は、あ、あの日か?なんて思い当たるわけです。

そうすると、子供とは「作った」。あるいは「出来た」としかいいようがないよな、なんて思うわけです。

私もこの8年間そう思ってきた。

そう思って、自分が子供の時はこうしたかった、ということを自分の子供に押し付けて来たんですな。

だって、この子はおれが作った。おれの一部だ。だから、オレのような後悔はさせないぞ。そんな風に思うんですよ。

  今思えばトンチンカンな誤りなんですけど。

  それに気がつかないんです。「作った」とか「できた」とか思ってると。

というわけで「もっと勉強しておけばよかったな」という後悔が、「お前勉強しろ!コラ!!!」という問答無用の強制になり、「ピアノ習いたかったなあ」という後悔が「ピアノ練習しろ!」という強制になるんです。

オレの子供には悔いのない人生を送ってほしい。だからガンバレ!なんてプレッシャーかけてしまう。

だからね。お父さんの身勝手で、お前を叱ってたんだよ。ゴメンな。本当にすまん。子供にそう懺悔すると、小学生ながらも何がしか理解するらしくて「お父さんズルい。ヒドいよ」なんて責められましたよ。子供も、理不尽に怒られたらしい、なんだか損した、と思うんですな。私はパパとは違うのにって。当たり前だよね。私はパパと違うんだ。子供はそう思う。大人はおれはお前だ。お前はおれだ。と子供を自分と同一視する。どっちがおかしい?大人がおかしいんだよ。

  怒りや、後悔はね。黙って抱えて死んで行くのが一番いいんだけどね。凡夫にはなかなかできない。

考えてみました。

子供はね、授かったんだよね。あんた(親)とは違うんだよ。別の世界、新しい人生を生きるんだよ。子供の、まっさらな新しい人生を、幸せにするのが親の第一の仕事なんだよ。ピアノ習って子供が幸せか?勉強したら、幸せになれるか?

そもそも、あんたは幸せなの?

  幸せ?でも、あなたは勉強しなかったんでしょ?ピアノ習わなかったんでしょ?

    だったら、勉強なんか、ピアノなんか幸せの必要条件じゃないでしょうが。

  不幸せ?それは、本当に勉強のせい?ピアノのせい?今、ここに幸せがなくて、どこにあるの?それに気がつかなければ、不幸せなままだよ。

    親がいて子供がいる。親は子を思い、子は親を思っている。それのどこが不幸せなの?バチがあたるよ!今、ここを幸せに生きられないあなた。それが問題なんじゃないの?

  それがね、分からないんですよ。特に一人目。

やたらに焦って、怒って、押し付けて、場合によっては手を上げて。子供のためだ、なんて思ってるんだけど、みんな自分のため。

  そう。取り返しのつかない自分の過去への怒りを、子供に向けているだけなんだ。

そりゃあ理不尽ですよね。子供にとってみれば、さあ、生まれてきた。これは何かと大変な人生だと思っていたら、自分を生んでくれた親がいきなりテンパッてるわけですから。

そりゃあマズイですよね。

もう勘違いも甚だしい。子供は自分とは違うんだ。違う人生を生きる、かけがえのない存在なんだ。

そんな当たり前のことに、8年間も気づかなったんですな。

でも、がっかりすることはない。8年ったらあかちゃんが小学3年生になるくらいの年だからね。

長いと言えばながい。でも、こと人間の愚かさを基準に考えれば、短いのかもよ。

そんなことを考えるわけですね。

ひろさちや「仏教と儒教ーどう違うか50のQ&Aー」新潮選書

★★★★☆☆:日本における仏教と儒教の歴史が分かる

どうして仏教が葬式仏教と化したか。儒教が日本仏教に与えた影響。興味のない人にとってはこれほどどうでもよい話題はないでしょうが私はそれなりに楽しんで読みました。

牧野雅彦「マックス・ウェーバー入門」平凡社新書

★☆☆☆☆☆:退屈

枝葉のことですが、預言者(神の言葉を預かる者)のことを予言者(未来を予言する者)と書いてあって、どうかと思った。

ウェーバーは宗教の観点からヨーロッパの社会を考えた人らしいですが、それを紹介する人に宗教の基本的知識がなきゃダメでしょう。

2010年6月29日火曜日

中田整一「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」講談社

★★★★★☆:情報軽視の日本軍。それから戦後の情けない官僚。隠蔽体質。

こと情報の運用と、情報に関する意識に関して言えば、アメリカの方が断然進んでいると言わざるをえませんね。

自国に不利な情報まで保管し、旧敵国の日本人ジャーナリストにまで公開するとは、さすがに大したものだと感心します。しかるに我が国はどうか。核密約、ひた隠しにされた日米地位協定。官僚どもは自らの保身ばかりを考える売国の輩か。どうなっておるのだ。

最後のサカイ・タイゾウのエピソードは感動的ではあるものの、やはり日本の官僚、マスコミの力不足に歯噛みしたくなる内容でした。

良書です。

ひろさちや「一番わかりやすい禅入門」三笠書房 知的生き方文庫

★★★★☆☆:そのとおりなんだよなあ

秋月龍珉さんの禅関連書籍に一時傾倒したんですけど、やはり厳しすぎるんですな。そもそも在家では本当の悟りには至れぬ!みたいな。禅世界の松岡修造ですわ。だったら、俺にはムリやんけ。って思うし、そうなると次は、出家したからってエライんか。となるわけです。秋月さんは好きなんですが、ハードル上げすぎたのは間違いない。

そこでひろさんの禅入門。これだよな。という気がする。一挙手一投足が禅だ。そうだよね。通勤電車でも、職場でも禅はできる。もちろん寺よりも環境は悪いけど。逆にその方が修行の価値があるんじゃないか。さかしらに野狐禅と軽蔑するなら、軽蔑するがいいですよ。葬式禅寺の世襲坊ちゃんなんか、好きなこと言わせておけばよろしい。ふん。なんちゃって。

2010年6月28日月曜日

お布施しちゃえよ

世界一の債権国、日本に味方はいない

金貸しは嫌われる。自明のこと。

そして、相当な金額を、日本は海外に貸し出している。

中国と日本が戦争したら、世界はどっちを応援するか。そりゃ、中国だ。と日下 公人氏は言う。

だって、みずほ銀行と中小企業が喧嘩したら、どっちを応援しますか。

私なら中小企業を応援する。

今の日本はみずほ銀行だ。金を貸す側だ。しかも、株主利益(アメリカの利益)を追求する、嫌われ者だ。

だったら、アメリカだとか中国だとかに貸した金を、全部チャラにしてお布施しちゃえばいいんじゃないか。

そうすれば、日本はみずほ銀行じゃなくなる。なんで、日本が金貸しである必要があるのか。

短期的には大損だ。でも、アメリカに対する義理が減る。発展途上国の憎しみが減る。しかも、一般市民だって気持ちよく納税できる。どうして公務員にお布施をする必要がある?発展途上国の人の貸し付けた金をチャラにした、その誇りだけで納税のモチベーションが上がるさ。

それは長期的には相当得してるんじゃないか。

そうなったら、どれほど日本人である自分が誇らしいか。

そんなこともできない経済大国の、なんと情けないことか。

日本は餓鬼が主導する世界か。

否定できないよね。

情けない。

冷蔵庫のない世界を想像してみよう

冷蔵庫のない世界を想像してみた。

まず、肉が余ると腐って臭い。

だから今日食べるだけの肉しか買えない。

だから食べられるだけの生き物(牛、豚、鶏、魚、貝)しか殺せない。

味噌、梅干しが有難い。しょっぱいけど。

トマト、キュウリ、スイカ、ナスが有難い。だって、毎日畑に成ってるし。しかも嬉しい。みずみずしい。

冷えてなくても水はおいしい。

冷えてる必要があるかしら。冷えてなくても、いいんじゃないか。

トマト、キュウリ、そのままでいいんじゃないか。

冷蔵庫が無くたって、暮らしていける。

ありがたいな、と感謝ができる。

そりゃ、冷蔵庫があればいいことがある。

保存ができる。保存ができれば計画が立てられる。今安いイワシを買って、干物にして冷蔵庫に入れておこう。肉も魚も手に入らないとき、冷やしたイワシの干物を食べられる。

それはそれでありがたい。

でも、冷蔵庫が機能するためには、誰かの犠牲が、喜捨が、お布施が必要だ。電力会社の人が働けばいい?でも、石油が、石炭がなければ電気は起こせない。石油、石炭は昔の生き物からできている。昔の生き物のお布施が、石炭石油になっている。

その冷たさ、そのイワシの干物は、昔生きた生き物のおかげというわけ。

でもひるがえって、私たちの快楽「冷えたトマトはおいしいな」と思う、その快楽は、昔の植物のお布施に値するのだろうか。

もちろん、自分の子供には少しでも心地よい食べ物を楽しんで欲しい。でも、それと同時に、食べ物の成り立ちを、その食べ物がどれほど有難いかを、知ってもらってもいいんじゃないか。そんなことを思うわけです。


早島鏡正「ゴータマ・ブッダ」講談社学術文庫

★★★★☆☆:いい概説書

よくまとまってます。仏教をざっと俯瞰するのによさげな本です。

養老孟司/内田樹「逆立ち日本論」新潮選書

★★★★☆☆:悪くない

ユダヤ人問題という極めてマニアックなテーマから入りつつ、最後には文明批評というスパイス入りのハイレベル放談になってます。それでも面白いのが養老パワー。大したものです。