2010年1月21日木曜日

クロード・ランズマン 高橋武智訳「SHOAH」作品社

映画「SHOAH」で語られた言葉やフランス語字幕のテキストを書籍化したものです。内容はユダヤ人ホロコーストの関係者(生き残りのユダヤ人、ドイツ人、傍観していたポーランド人など)のインタビュー。

「夜と霧」にも衝撃を受けましたが、これもまたヘビーな本です。

しかしまあ、ホロコーストを前にしては人は沈黙するしかないという気がします。なぜこうなったのか。自分がそこに居合わせたとしたら何ができただろうか。いや、何か出来たのだろうか。と、ひたすら反芻する他はない。

周りを見回してもアウシュビッツ的なものやことに遭遇することの多いこと。人は規則に従って他人を押し潰すことに何のためらいもないのだなあ、ということがよく分かる。自分の頭で考え、自分で正しいと思うやりかたで生き延びるのはなかなか難しいことなのです。それがホロコーストと何の関係があるのか。私には、ホロコースト的なものが、今、近くで息づいているように思えてなりません。ホロコーストとわれわれは、思ったよりも近い距離にいる。私はそう考えます。

2010年1月20日水曜日

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人監修 築地誠子役「ヒトの変異〜人体の遺伝的多様性について」みすず書房

★★★★☆☆:面白いが遺伝子原理主義には注意

原題はずばり「ミュータント」。人類の歴史に現れた突然変異や最近の分子生物学の実験の成果を紹介しつつ、個体としての人間がどのように発生しているのかを説明している本です。

例えばナントカという症状があって、それはカントカという物質が体内で生成されない人が発症する病で、なぜ生成されないかというと遺伝子がドウコウしているから。云々。そしてその遺伝子を持つ人は何万人に一人。

まあ何というか気の滅入るような本でした。とにかく全体を貫く決定論的なトーンがやれやれという感じ。どういうことかといえば、ヒトは生まれた時に遺伝子によって将来が決められているのだ、例えばXXという遺伝子を持つヒトがナントカ病にかかる確率はXパーセント、みたいな。いや、そんなにはっきりとは言ってませんけどね。とにかく人は誰でも、大なり小なり突然変異を持っているのであって、まあ無事に生きられるのも単なる偶然。宝くじに当たったようなもの。やれやれ。と、ここまでいうと言い過ぎかもしれませんが。

呆れたのは最後の章。美について語っているのですがその内容のまた貧相なこと。いわゆる美人、美男というのは平均顏であるというのが定説なわけですけど、それを根拠にして美とは突然変異を免れた偶然への憧れではないか、とのたまう。ああ。何というか貧しい発想か。じゃあ音楽の美は何だ。大自然の美は何だ。ピカソの美は何なんだ。

確かに分子生物学の成果は教養とし大事だとは思いますが、この本を書いた人はあまり生真面目に過ぎるようです。うつ病一歩手前じゃないか、とすら思いましたね。

多分、この人は分子生物学以外のことは見えなくなってるんじゃないか、そんな気がします。社会で苦労してい生きてる人にとっては、うん。遺伝子の話は分かった。確かに面白い。でも、だから何なんだ。それがどうした。オレの給料上がるんか。子供が幸せになるんか。そういう感慨がわいてくるんじゃなかろうか。

役に立たない学問などいらない、そんな低レベルのことを言ってるわけではありません。将来、遺伝子治療が難病を直す可能性だってあるしね。そうじゃなくて、人生というのはさまざまな観点から捉えられるべきものではないか、と。人生が遺伝子だとかホルモン物質で成り立ってるわけじゃありませんから。科学的思想に凝り固まってると、人生の機微を見失うことになると思われます。まあ、逆にいえば人生なんてのはフィクションだ、そんなことも言えなくはない気もしますけど。

山は楽し

私は自他ともに認める超インドア派で、どこかに出かけるといっても都心の書店や電気屋やショッピングセンターなどをうろつきつつ、ファミレスあたりで食事して帰る、というのが典型的な土日の過ごし方だったりするのですが、先週の日曜に何をとち狂ったか子供を連れて高尾山に行ってみたのです。妻無しで。

なんでかというと妻に用事があってどうせ子守をしなきゃならんと。で、先々週にオアゾ丸善は訪問済みで、さすがに二周続けて丸善はない。でも他に行くところがあるかといって思い当たる場所もなし。このままでは近所の公園でボール遊びして終わりになりそうだけれども、それもイマイチだなあ、というわけで、思い切って高尾山に行くことにしたのです。

結論からいうとこれが大成功。疲れたし人だらけだったけど楽しかった。

妻に付き合って山に登ったことは何度かあったのですが、正直あんまし楽しくなかった。ただ妻の後ろを歩くだけですからね。 景色がいいったってアラスカに行ったわけじゃないし。何も考えずに坂を上るだけじゃじきに飽きちゃう。やはり山は自分で計画すべきですよ。楽しさが断然違う。行程、スケジュール、装備。地図を見て歩く道を決める。これが楽しいのです。いやまあ高尾山なんですけどね。でも気持ちはちょっとした冒険です。油断すると高尾山でも遭難する可能性はあるからね。子連れで、しかも素人がリスクは冒さないけどさ。その可能性だけでちょっとしたスリルも感じられ、これがまた冒険気分を盛り上げる。

登山なんて何が楽しいんだ。あんなもの。交通費はかかるし、よほど遠くに行かなきゃテレビで見るような大自然には触れられないし、雑木林にじいさんばあさんが歩いてるばかりじゃないか。まあそうなんですけどね。でも弁当水筒と地図持って野山を歩くっつうのはやはりちょっとした冒険。今、手持ちの食料と水と衣料だけで、地図という情報だけで俺は山の中にいるのだ、この緊張感が楽しい。腹減って食べる飯がおいしい。山道を歩くのが楽しい。なんか祖先の生活に戻ったようで、生きる緊張感と喜びを味わうことができます。

次回はわたし用の山コンロを買って山で子供とラーメン食べる予定。今から楽しみです。

2010年1月18日月曜日

沖縄にて

電車の窓から外を眺める。快晴だ。海が近づいている雰囲気がする。乗客も少なく、とても気分がいい。雲と稲の生い茂る田園風景が車窓を流れて行く。目的地は沖縄。仕事があるのだ。一時間ほど電車に揺られて、海辺の町に到着する。

わりと大きな港があって、錆びたトタン屋根の、大きなバラックがいくつも立ち並んでいる。水揚げした魚の加工でもするのだろう。出刃包丁で魚の頭を落とし、はらわたを掻き出すのだ。仕事をしているのはこの町のおばさんたちだ。私は彼女たちの作業を想像する。空想の中のおばさんたちはとても手際がいい。

海の上には長方形の錆びた鉄板が綺麗に並んで浮かんでいた。畳一枚ほどの大きさで連なっている。沖の方に小さな島が見える。鉄板の並びはその島まで続いていた。この上を歩けば島までたどり着けそうだ。私はあの島に用事があるのだ。何の用事だったかは忘れてしまったが、いずれ思い出すだろう。とにかくあの島に行かなければならない。

港で網の手入れをしていた漁師に念のため聞いてみたら、鉄板に乗っても大丈夫だ、と教えられた。でも空はもう薄暗い。これから鉄板の上を歩くわけにもいくまい。何しろ海の上を歩くなど生まれて初めての経験だ。

明日島に行くことにして、酒を買いに出た。軽く呑んで眠ろう。せっかく沖縄にきたのだから。酒は浜辺で売っていた。砂浜に棚が置いてあり、酒が並んでいる。遠くに店の灯りが見える。あそこで精算するのだ。月明かりに海の波が照らされている。私は棚の前でサントリー・オールドにするかジョニ赤にするかでひとしきり悩んでいる。

翌日、鉄板の上を歩いて小島に向かう。朝なんだか昼なんだか分からない。うす曇りの天気だ。少し波で揺れるが、かなり安定していて歩きやすい。下を覗いてみると、鉄板の裏から綱が海底に延びているのがわかる。海底まで光は届かないが、どうやら何かと結び付けられているらしい。綱には海藻が絡み付いている。竿をだせば釣りもできるだろう。

しばらく歩くと島までは思ったよりも距離があることが分かる。何の準備もなしに歩くのは危険だ。私は途中で引き返すことにした。装備と情報が不足している。だいたい鉄板を渡って島まで歩くなんて聞いたこともない。もう一日様子をみよう。

次の日。私は海にもぐり、泳いで鉄板の脇を観察する。水中から海面を見上げると、鉄板がぷかぷかと海の上をたゆたっている。しばらくの間私は鉄板の脇を泳ぐ。すると突然、鉄板がある方向にむかってじわじわと動きだす。潮の流れに押されて次第にそのスピードは早くなり、見る間に早足で歩くほどのスピードになる。綺麗に整列して一方向に流れる赤茶けた鉄の板。そうか。入り江に格納されているのだ。そして入り江にキチンと片付けられるのだ。私は鉄板を避けながら泳ぐ。避けられないほど速いスピードではない。泳ぎながら私は考える。今はまだいい。でもサメが襲って来たら鉄板の上に飛び乗らなければダメだな。私はその時に備えて全身を引き締める。でも。と私は考える。鉄板を噛み砕くほどのサメが来たらどうしたらいいだろう。到底逃げおおせることはできないだろう。でもまあ、その時はその時だ。なんとかなる。

カリフォルニアでマリファナ合法化の動きがあるらしい

CNNで聞きました。医療関係限定だったかしら。100%聞き取れないのが辛いところ。規則なんて、法律なんて、そんなもんじゃ。

確か大麻吸って退学になった学生がいましたね。あと実名晒されて社会生活終わった人とか。かわいそうというか、なんと言うか。杓子定規にやるなよ。と思いますね。悪いものは悪い。でも。そりゃそうだけどさ。ってところを残しておかないと息苦しくてしょうがない。

カール・R・ポパー 内田・小河原訳「開かれた社会とその敵 第一部」未来社

★★☆☆☆☆:現代的意義には疑問

「利他主義と矛盾しない個人主義」と民主主義、すなわち近大欧米の基本思想を擁護した本。第一部ではプラトン批判を通じて西洋の古代全体主義を批判しています。第二部ではマルクシズム批判を展開するとのこと。

良い本だとは思いますが、むしろ気になったのが冷戦崩壊後の日本に生きる私とポパーさんとの問題意識の相違です。まず、端的に言ってなんでそんなにプラトン批判に熱が入るのかが分からない。私にとってはプラトンは昔の偉い人。教養の対象であって、現代に息づいてる思想家ではない。プラトンがカースト制の全体主義国家やスパルタ的国家運営を支持していたからといって真剣に批判しようというモチベーションは湧かない。なんか理由があったんでしょう。確かにスパルタは一時的には強国だったわけだし。それだけ。

では何でポパーさんが一生懸命になっていたのか。それはこの本が書かれた年代からすれば当然でして、すなわちナチズムと共産主義の台頭。特に社会主義がかなり怪しい魅力を放っていた時代です。だから全力で民主主義を擁護しているわけです。

それは分かる。でも頭で分かっても、身に染みて問題意識を共有することはできまへん。

やはり時代が違うということですね。マルクシズムのリアリティが相対的に激減する一方、アメリカの帝国主義もまたほころびを見せつつある。資本主義が社会主義に対して勝利を納めたものの、貧富の格差など別の問題を生み出している。今はむしろ資本主義とどうやって上手くやっていくか、そこが問題になっているのだと思います。

明らかに民主主義は全体主義よりもマシな思想です。しかしその対立よりも経済の方が主要な関心となっている。経済、すなわち人間のより直接的な欲望が世界を動かしている。どうも相変わらず国家間の関係というのはシビアだし、しかも昔より複雑になってきているんじゃないかなあ、という気がしてなりません。