訳の分からないタイトルで申し訳ない。しかし誰かから、ヨガが本当に下痢を救うのか、とまじめに問われれば、そうだろうね。と答えます。ことにその下痢が心因性のものであれば、100%。ヨガは下痢を救う、と私は確信するものであります。
心因性の下痢とは何かと言えば、ストレスで腹が下るとか、その手のやつです。
仮に心因性の下痢が存在する、と想定しましょう。また、私はヨガは心因性の下痢を救うと考える。とすれば私にとっては、必然的にヨガは下痢の原因となる心の問題を解決するものである、こういう命題が成立することになります。どうですか、この三段論法。まったく客観的ではありませんな。しかしまあ、心と体という関係を前提として考えたとき、もっとも先鋭的なところに踏み込むのはヨガである、と私は強く考えるものであります。
なんだか訳の分からない投稿になってきましたな。ま、いっか。
電車でiPodであわただしく更新するのと、酒を飲みながらのんびりキーボードを叩くのとでは、文章からして違ってきますね。
さて。ヨガです。
それはあらゆる筋肉を使い、ほぐすものです。
そして筋肉には二種類が存在する。一つは自分の意図どおりに動く筋肉(随意筋)。もう一つは意図どおりには動かない筋肉(不随意筋)。
例えば腕の筋肉は意識したとおりに動く(と思われる)。目の前にあるコップを取ろうと思えば、腕の筋肉が動く。モノを拾おうと思えば、足と手の筋肉が動く。一方、内臓の筋肉は考えても動かない。心臓の鼓動は意志では止まらない。
しかし、ヨガがあらゆる筋肉を使うものであるとすれば、常識的には制御不能であるはずの筋肉を使うことが出来ることになる。
しかるに、神経性の下痢は内臓の動きがマズいがために発生するものである。
ゆえに、その内臓の動きを制御することができれば、下痢は起こらない。
どうですか。このスキのないロジック。
実際、熟練のヨガの行者は意識的に心臓の鼓動を止めることができると、わりと信頼できる筋の、複数の本で読んだことがある。例えばヨガをたしなんでいたジャック・マイヨールは、潜水時に脈拍が相当減少していたらしい。そして数々の伝説が、ヨガ行者の不思議な技や、苦行を伝えている。
すなわち、人体の不随意筋をコントロールすることによって、人は常識的には考えられないようなことができる。
常識的には考えられないと言っても、昔の日本人は汗をかくかどうかを意識的にコントロールしていたらしい。あるいは女性の生理の日程をある程度までコントロールしていたという話もある。とすれば、昔の常識では不随意筋や体の調子のコントロールも、それなりに出来ていたことになる。
下痢は別に常識外の事象ではない。すなわち、人は下痢をコントロールできる。あ、でもヨガの前に暴飲暴食を止める必要がありますけどね。
下痢はもういいか。
結局何が言いたいかというと、心身のズレが引き起こす問題とか、心と体の問題ってのは、心と体を分けたその時点で不可避的に発生しているものであって、本来であれば心も体も一つ。仏教的に言えば無であり、西田幾多郎的に言えば絶対矛盾の自己同一であって、そもそもそこが出発点なんじゃないかと思うわけです。自然に考えれば、心は身体であり身体は心。我とか意志とか、そんな虚しいものが苦を産み、生を痛々しいものにしている、とそんな気がしてしょうがないと思うのです。
なんとなく(私的に)スッキリしたところで、以上。