2010年3月19日金曜日

嫌韓とかいう根強い風潮もあるけれど

日本の「韓国企業に学べ」ブーム、韓国の反応は・・・ を読みました。韓国を見習えとする日本経済新聞の社説への韓国の戸惑いを描いた、日本人心をくすぐる謙譲の美徳あふれた反応です。

それにしてもWebの世界での嫌韓の雰囲気はスゴいです。戸惑うほどです。2chを見て韓国を嫌いになった、という人も多いと思われる。ライバルってのは分かるけど、日本のネットでの韓国嫌いアジテーションは相当です。

私は韓国の方若干名と仕事したことがありますが、皆さん純朴でまじめな感じで、とてもいい印象が残っています。実際、私以外の複数の人も、キムさんいいねえ。とか言っていたので、おそらくは私の印象に間違いはない。まあ、むやみに一般化する気はありませんが、ネットでの嫌韓の雰囲気は異常だと思う。あれは本来の韓国像どうこうというより、日本の若者のフラストレーションが爆発している先がたまたま韓国である、そんな気がする。

ということで私は、嫌韓や韓国叩きを見るたびに、日本が自信を失っているんだなあ、という風に感じます。表現は悪いけれども、日本が韓国を圧倒している事実があれば、わざわざ韓国を叩かないわけでしょ。韓国が日本を圧倒しているということはないけれども、少なくとも日本は元気を失い、韓国企業やら韓流コンテンツはテレビを流れている。

戦前の日本を正当化するにせよ、右寄りに日本を讃えるにせよ、そこに韓国を絡めるというのはどうも筋違いという気がしてならない。矛先が誤っているんじゃないか。敵は本能寺じゃないですかね。本能寺がどこかはしらないけれど。

2010年3月18日木曜日

会田雄次「アーロン収容所」中公新書

★★★★★★:傑作です

笑いあり涙ありの収容所生活の記録。重要な戦後の資料であるとともに、一級の文学的エッセーでもあります。

日本人の国民性を読み取ってニヤリとするもよし。西欧人の人種差別意識に触れてその植民地主義価値観に疑問を持つもよし。アジアの人との交流にホッとするのもよし。人種、民族に関する分析や、社会学的分析に啓発されるのもよし。様々な読み方ができます。

巻を置く能わずで一気に読みました。お勧め。

ジャック・デリダ著 増田一夫訳「マルクスの亡霊たち」藤原書店

☆☆☆☆☆☆:一般的日本人には価値なし

精神=ガイスト=亡霊というキーワードにシェイクスピアなどの古典を絡めながら、冷戦崩壊後のマルクス主義について語られた本です。まあ言葉遊びですね。極東の日本に住み、アメリカ流資本主義を問題視する私にはインパクトなし。言っちゃあ悪いけど、マルクス主義はもはや結構どうでもよい。それよりも日本流の家族、世間主義の復興に期待したい。

しかし一時期の学者のマルクス主義への思い入れは異様ですね。吉田茂の共産主義なんてダメじゃないか、という素朴な直感が結局は正しかった。いや、あれはスターリンがいけない、フルシチョフが。ダメです。結果が全て。ロシアの悪夢の官僚主義と弾圧とインフラの弱体化こそが事実。西洋の思想家も余計なところにカロリー使って大変だなあと思います。

後、ドゥルーズ、デリダあたりのフランス現代思想ってかなり意味不明です。単語と文章からしてさっぱり分からん。フーコーまでならまだ日本語として読めるんですけどね。こんなの有難がってもしょうがないんじゃないかしらん。この時代に日本で読む意味があるのかね。

まあ、当方のおつむが足りないだけという可能性も多いにあるので、引き続きチャレンジしてみますけど。

谷徹「これが現象学だ」講談社学術新書

★★☆☆☆☆:コアな文系学生限定

熱心さは伝わってくるものの、果してこれがどれだけの人に届くのかね、とちょっと冷めた目で見てしまいました。

結局西洋哲学というのは、遠い国の、まったく異なった思想、宗教を背景として持つ人たちの産物ですから。

まず普通に理解するのが大変。だってキリスト教ですよ?全能の人格神とか三位一体とかそんなの分かりませんよ。でもそれが分からないと確実に西洋哲学はわからない。タチが悪いのは、フッサールまでの西洋哲学は確かに客観的普遍的なように見えるのですが、実はかなり歪んだ西洋的バイアスがかかっている点です。主観とかロゴスとかね。まさに西洋のキーワードです。

そこんところ、エポケーとか現象学的還元で分からないのかね。

この本、真っ向から現象学を紹介してるんですが、若干息苦しい。熱意の上滑りという気もしてしまう。だって厳密な学の基礎付けなんてモチベーションが理解できます?できたとして興味持てますか?

文系学問の宿命なのかもしれませんが、教授の皆さんももう少し自由に好き勝手に思い入れ含めて書いてもいいんじゃなかろうか、と愚考します。そういう意味では竹田青嗣さんなんかはいい仕事してると思いますね。

2010年3月16日火曜日

中村逸郎「帝政民主主義国家ロシア〜プーチンの時代」岩波書店

★★★★★☆:読む価値あり。スリリングで面白い

良書です。プーチンのロシアが、市井の人々のインタビューとともにありありと迫ってきます。

今のロシアは、まさにカフカ的世界のようです。つまり最大限に非効率的な官僚主義。カフカの小説と異なるのは、ロシアの官僚が非効率的なだけではなく、腐敗している点にあるとすら言えます。また、既得権益層が頑張ったおかげでかつての社会主義的システムはまだまだ強固であり、官がダメなら民で、などという選択肢もない。官しかない。しかもその官が絶望的。非効率的な官によるサービスの独占。市民は悲惨な状況に置かれています。

具体的には、官僚が新興企業から賄賂を貰い、旧国有財産を安く横流ししたり、不透明な案件に税金を投入したり。しかも、市民が新興企業の活動で迷惑をこうむったと官僚に訴えても、当然なにもしてくれない。

他にも悲惨なのはロシアの居住環境。建物を診断する公的機関によって修繕が必要とされた、老朽化した公共アパートが、いつまでたっても修繕されることがない。暖房が壊れたまま、冬を越さざるを得ない人々。ロシアで、ですよ。室内でのマイナス5度や10度は当たり前。しかも、そのアパートは、何人もの家族が住んでいるにも関わらず、極めて狭く、トイレやキッチンは共用。住民同士はまさに一触即発の関係にあり、実際共同アパートでの殺人事件はよくあるという。

市民が当然受けられるはずの、生活に必須の公共サービスが、何年も棚上げされるのが当たり前になっていて、市民は諦めと怒りとともにその状況を受け入れている。

この社会環境で希望の矛先となっているのが、実行力があり、清廉なイメージを持つプーチンというわけです。官僚機構が絶望的であり、なにも期待できない。市民は最終的なよりどころとしてプーチンへの直訴に向かい、訴えることによって満足感を得る。でも、当然ながら実際には現状が改善されることはありません。実際、プーチンが清廉で公平で市民のことを優先して考えている証拠は、息のかかったマスコミから発信される情報以外はどこにもない。

プーチンの高い支持率が、実は危うい基盤に成り立っていることがよく分かります。そうだったのかロシア。スリリングで面白い本でした。

2010年3月15日月曜日

ダスグプタ著 高島淳訳「ヨーガとヒンドゥー神秘主義」せりか書房

★★★☆☆☆:まあまあ

最近朝と晩に、柔軟体操を兼ねて見よう見まねでヨガもどきのポーズを取っていることもあって、図書館でタイトルを見かけてナニゲに借りてみました。

期待してなかったのですが意外と良書でした。まず神秘主義を対象としながらも理路整然と記述している。それからバランスがいい。ヒンドゥー、ヨガ、仏教の概説が手短に、それでも要点を抑えて書かれています。ダスグプタさん、どうやらその道の大家だったようです。1926年の講演がもとになってできた本とのことでずいぶん昔の本なのですが、古びてない。これは失礼しました。

後は西洋の物質主義、欲望主義の批判が気持ちいいです。読んで何となく居住まいを正してしまった。インドの宗教や思想は面白い。以上。

池田元博「プーチン」新潮新書

☆☆☆☆☆☆:読む価値なし

きっかけはゴルバチョフ回想録。今のロシアはどうなっているのか、プーチンというのはどういう存在なのか。気になって読んでみました。

感想。表面的な内容だった気がします。プーチンとはどんな人間か。いったい何を考えているのか。あまり説得力を持った解説はありませんでした。まあ無い物ねだりをしてもしょうがないので、皮相な情報なりに整理してみると、プーチンとはどうやら優秀な官僚であって、運と時代の流れが彼を大統領の地位にまで推し進めたらしいと。

これも皮相な印象ですが、いろんな意味で中道というか極端ではない人みたいですね。そこそこいいことをするし、そこそこダークな面もある。ロシアの成金を、一方では弾圧して他方では上手く使っている。それから強力なリーダーシップとマスコミに対する実権を握ったこと。これらがプーチンがロシアの人々から支持される理由のようです。

いずれにせよエリツィン後の混乱を何とか収め、国民の支持を受けていることは評価できるでしょう。この新書から得られた情報はこんなもんでした。

追記
その後、中村逸郎「帝政民主主義国家ロシア〜プーチンの時代」を読みました。それと比べるとこの新潮の「プーチン」はダメダメです。余りにも浅く、表面的。読む価値なし。

2010年3月14日日曜日

ヨガは下痢を救うのか

訳の分からないタイトルで申し訳ない。しかし誰かから、ヨガが本当に下痢を救うのか、とまじめに問われれば、そうだろうね。と答えます。ことにその下痢が心因性のものであれば、100%。ヨガは下痢を救う、と私は確信するものであります。

心因性の下痢とは何かと言えば、ストレスで腹が下るとか、その手のやつです。

仮に心因性の下痢が存在する、と想定しましょう。また、私はヨガは心因性の下痢を救うと考える。とすれば私にとっては、必然的にヨガは下痢の原因となる心の問題を解決するものである、こういう命題が成立することになります。どうですか、この三段論法。まったく客観的ではありませんな。しかしまあ、心と体という関係を前提として考えたとき、もっとも先鋭的なところに踏み込むのはヨガである、と私は強く考えるものであります。

なんだか訳の分からない投稿になってきましたな。ま、いっか。

電車でiPodであわただしく更新するのと、酒を飲みながらのんびりキーボードを叩くのとでは、文章からして違ってきますね。

さて。ヨガです。

それはあらゆる筋肉を使い、ほぐすものです。

そして筋肉には二種類が存在する。一つは自分の意図どおりに動く筋肉(随意筋)。もう一つは意図どおりには動かない筋肉(不随意筋)。

例えば腕の筋肉は意識したとおりに動く(と思われる)。目の前にあるコップを取ろうと思えば、腕の筋肉が動く。モノを拾おうと思えば、足と手の筋肉が動く。一方、内臓の筋肉は考えても動かない。心臓の鼓動は意志では止まらない。

しかし、ヨガがあらゆる筋肉を使うものであるとすれば、常識的には制御不能であるはずの筋肉を使うことが出来ることになる。

しかるに、神経性の下痢は内臓の動きがマズいがために発生するものである。

ゆえに、その内臓の動きを制御することができれば、下痢は起こらない。

どうですか。このスキのないロジック。

実際、熟練のヨガの行者は意識的に心臓の鼓動を止めることができると、わりと信頼できる筋の、複数の本で読んだことがある。例えばヨガをたしなんでいたジャック・マイヨールは、潜水時に脈拍が相当減少していたらしい。そして数々の伝説が、ヨガ行者の不思議な技や、苦行を伝えている。

すなわち、人体の不随意筋をコントロールすることによって、人は常識的には考えられないようなことができる。

常識的には考えられないと言っても、昔の日本人は汗をかくかどうかを意識的にコントロールしていたらしい。あるいは女性の生理の日程をある程度までコントロールしていたという話もある。とすれば、昔の常識では不随意筋や体の調子のコントロールも、それなりに出来ていたことになる。

下痢は別に常識外の事象ではない。すなわち、人は下痢をコントロールできる。あ、でもヨガの前に暴飲暴食を止める必要がありますけどね。

下痢はもういいか。

結局何が言いたいかというと、心身のズレが引き起こす問題とか、心と体の問題ってのは、心と体を分けたその時点で不可避的に発生しているものであって、本来であれば心も体も一つ。仏教的に言えば無であり、西田幾多郎的に言えば絶対矛盾の自己同一であって、そもそもそこが出発点なんじゃないかと思うわけです。自然に考えれば、心は身体であり身体は心。我とか意志とか、そんな虚しいものが苦を産み、生を痛々しいものにしている、とそんな気がしてしょうがないと思うのです。

なんとなく(私的に)スッキリしたところで、以上。