鶏ひき肉詰め高野豆腐の煮物でも作ろうかいと思ってスーパーに行ってみたらウルメイワシが安かったのでイワシハンバーグに変更です。ちなみに昼食は独りでバナナ一本。オヤツに軽く動物ビスケット。母と子二人は外出してましたが、同じくジャンクフード(しかもドーナツとか)を食した模様です。まあこんな日もある。
ウルメイワシを手で捌き、例によってチマチマとサク取りします。白子と卵巣が発達してましたね。そんな季節か。つーことは栄養はそちらに取られてしまい、決して本体の味が良い季節ではない、というのが魚類の定説ですが、果たして脂は乗ってませんでしたね。でもハンバーグだからそれもまたよし。捌ききったらブレンダーでミンチに。豆腐、パン粉、小麦粉、卵とともに捏ねて、フライパンで焼きます。隠し味にナツメグ、タイム、コショウ。
いい焼き色です。後はほうれん草と麩のお吸い物。
ハンバーグはハーブの隠し味(ちゃんと隠れてるε-(´∀`*)ホッ)もあって大人の味でしたね。脂が乗ってなかったせいか、肉に近い歯ごたえもあって妻と私には(゚д゚)ウマーでした。子供の評判はイマイチ。もういらないと言うのを脅して完食させました。もう毎日脅してばっかりですわ。
でもまあ概して成功であったと言うにやぶさかではない。
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モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
2009年5月2日土曜日
バターロール、卵そぼろ、鶏そぼろ、コッペパン(コールスロー、卵フィリング、ハム)サンド
ここ数日の料理です。
やっぱ腹八分って重要だよねー。
まずはバターロール。やっぱり一次発酵、二次発酵具合が肝です。繰り返し言ってるようですが、今の季節、深夜冷蔵発酵でもイーストは半量で十分。二次発酵は以下の手順で計45分としています。
オーブンの保温機能40度:15分
その後室温に放置:30分 (この間にオーブンを余熱)
現在時点ではベストの発酵時間です。
夜は卵そぼろ、とりそぼろ、それからお吸い物とスナップエンドウ。盛り付けにセンスがないのは才能がないから。料理はしみじみ系の和食で(゚д゚)ウマーかったです。両方とも「娘に伝える私の味」を参考にして作りました。
これは今朝のメニュー。コッペパンの形にパンを焼いて、コールスローサラダ、卵フィリング、ハム、ウィンナを挟んで食べました。大変(゚д゚)ウマーでした。おかずパンにするときは、バター、砂糖の量は今の半量くらいでいいかも(すなわちバター15g弱、砂糖大匙1程度)。
以上。
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やっぱ腹八分って重要だよねー。
まずはバターロール。やっぱり一次発酵、二次発酵具合が肝です。繰り返し言ってるようですが、今の季節、深夜冷蔵発酵でもイーストは半量で十分。二次発酵は以下の手順で計45分としています。
オーブンの保温機能40度:15分
その後室温に放置:30分 (この間にオーブンを余熱)
現在時点ではベストの発酵時間です。
夜は卵そぼろ、とりそぼろ、それからお吸い物とスナップエンドウ。盛り付けにセンスがないのは才能がないから。料理はしみじみ系の和食で(゚д゚)ウマーかったです。両方とも「娘に伝える私の味」を参考にして作りました。
これは今朝のメニュー。コッペパンの形にパンを焼いて、コールスローサラダ、卵フィリング、ハム、ウィンナを挟んで食べました。大変(゚д゚)ウマーでした。おかずパンにするときは、バター、砂糖の量は今の半量くらいでいいかも(すなわちバター15g弱、砂糖大匙1程度)。
以上。
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2009年5月1日金曜日
インプットとアウトプットについて
養老猛司氏がどこかで「人間、結局のところ y = f(x) の関数に過ぎない。つまり x を 入れれば f() という重み付け関数に従って y というアウトプットが出てくるから」と言ってますが、けだし名(迷)言だと思います。
まずは、フェアではありませんが文脈を度外視して揶揄気味に。
そりゃあまあそうだよね。うまいもの食べればうまいって言うし、食べたら排泄するし。痛ければ痛いって言うしね。受動と能動っていう切り口は変ではない。自然科学者らしい発想です。
INがあって作用があってOUTがある。原因があって(むにゃむにゃして)結果がある。あれ?でもこれってご自身が批判されていた「ああすればこうなる」の延長では?事象を解釈する人間的な尺度=ツールに過ぎないのであって、大上段から人間とは y = f(x) だと言うのってちょっとやりすぎじゃないですかね?
まあ、別に文脈全体には特に違和感はなかったので、重箱の隅をつつくのもこれくらいにしておきます。(養老猛司氏ですが、抽象的思考能力があり過ぎるのか、一見して分かりやすく抽象化されているようで実は難解な含蓄があったり、誤解を受けやすいような気がしますね。私も分かっててそこを突いてます。貶す意図はほとんどありません)
しかし、普通引っ掛かりますよね。x をインプットされたら y が出てくる。ホントか?実際、そういう前提で人間を扱う学問も実際にあります。実験心理学とか。しかし日常的に半自覚的に生きていると、反発して当たり前だと思います。
ガンの原因だって分からない。どうすれば好景気になるかも分からない。分かっちゃいるけどやめられない。見たくなくても見てしまう。見えているはずが見えてない。だったら人間がインプットとアウトプットで説明できるわけはない。
この f() に養老猛司氏の頭の良さと乱暴さが現われているように思います。何かを感覚して(むにゃむにゃして)何かを能動的に考えたり、行動したりする。この構造を y = f(x) と解釈するのはまあ面白い。しかし、突き詰めて考えると疑問がいっぱい出てきます。
x がインプットだとすると、具体的には何でしょうか。いわゆる五感ですかね。アウトプットは?思考とか行動でしょうね。何かを見て聞いて考える。そして行動する。五感で入力して思考や行動という出力が生まれる。うん。きれいに y = f(x) が出来上がった。本当に?
まず見える/聞こえるなどの五感の受容性について考えてみましょう。分かりやすいように極論で行きます。江戸時代の人間を連れてきてパソコンを見せたら何をするでしょうか?江戸時代の人にパソコンがどう見えるかも分からない。光りがチカチカする箱ですかね?一方われわれにとってみればパソコンはパソコン(これも人によって違うでしょうけどね)。となると、江戸時代の人にとってのパソコンと、現代人にとってのパソコンは、同じインプット = xになるのでしょうか?そうはなりませんね。つまり、このケースでは、現代人では y = f(x) かもしれませんが、江戸時代の人にとってみれば y = f(x''') (xスリーダッシュ)くらいになってる。つまり、インプット自体が異なるわけです。単純に「f() が違う」とだけでは説明できない。
つまり同じものなんてのはない。だから安易に y = f(x) などと一般化できるものではありません。生の x としてパソコンが与えられたとして、そのパソコンは既にその人の持っている知識や歴史から解釈されてしまった上で与えられるのです。生の x そのものが与えられるわけではない。
じゃあ、こうしてみたらどうだろう。上記の解釈ってのを別の関数にするのです。すなわち y = f( g(x) ) 。この g(x) って何だ?カントに言わせれば「想像力」となります。昔の人はちゃんと考えたものです。感心しますね。つまり生(なま)の事象は想像力によってその歴史や知識を包含したものとして実体化される。そうして初めて意識に与えられることになります。
g()が意識に与えられる以前に作用する関数なので、f() ってのは意識に与えられてから作用する関数ということにしましょう。すなわち f() = 「意思とか意識的な解釈」になるかと思います。こうして初めて思考というアウトプットが出てきます。しかしこの意思とか意識ってのがまた厄介です。意識はINPUTから完全中立できるのか?ということですね。もう少し分かりやすく言いましょう。われわれは常に五感を通じて大量の情報を得ています。f() はそこから独立しているのでしょうか。同じ暑い夏でも、暑いのは不愉快だなあと思って考えることと、暑い夏は気持ちいいと思って考えることは違いますよね。ええと。この辺論理大丈夫かな。
長くなってきたので結論を急ぎます。仕事の片手間に文章書く(本職じゃないってことですよ。念のため)というのはある意味ウルトラマンが宇宙人と戦ってるようなもので長時間もたないのです。
たぶん y = f(x) なんてことはあり得なくて、人間のアウトプットなんてf''(f'(f(g''(g'(g(x))))) 位のわけのわからないほどの相互作用やら何やらを経て出てくるものだと思います。叩いたから痛いってわけでもない。誰にどういう状況で叩かれたかによって違ってきます。
だから何が言いたいかというと、人間ってのはいろいろ複雑な世界に生きているんだから、そんな簡単に生きられないんだよね、ってことですかね。
以上。
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まずは、フェアではありませんが文脈を度外視して揶揄気味に。
そりゃあまあそうだよね。うまいもの食べればうまいって言うし、食べたら排泄するし。痛ければ痛いって言うしね。受動と能動っていう切り口は変ではない。自然科学者らしい発想です。
INがあって作用があってOUTがある。原因があって(むにゃむにゃして)結果がある。あれ?でもこれってご自身が批判されていた「ああすればこうなる」の延長では?事象を解釈する人間的な尺度=ツールに過ぎないのであって、大上段から人間とは y = f(x) だと言うのってちょっとやりすぎじゃないですかね?
まあ、別に文脈全体には特に違和感はなかったので、重箱の隅をつつくのもこれくらいにしておきます。(養老猛司氏ですが、抽象的思考能力があり過ぎるのか、一見して分かりやすく抽象化されているようで実は難解な含蓄があったり、誤解を受けやすいような気がしますね。私も分かっててそこを突いてます。貶す意図はほとんどありません)
しかし、普通引っ掛かりますよね。x をインプットされたら y が出てくる。ホントか?実際、そういう前提で人間を扱う学問も実際にあります。実験心理学とか。しかし日常的に半自覚的に生きていると、反発して当たり前だと思います。
ガンの原因だって分からない。どうすれば好景気になるかも分からない。分かっちゃいるけどやめられない。見たくなくても見てしまう。見えているはずが見えてない。だったら人間がインプットとアウトプットで説明できるわけはない。
この f() に養老猛司氏の頭の良さと乱暴さが現われているように思います。何かを感覚して(むにゃむにゃして)何かを能動的に考えたり、行動したりする。この構造を y = f(x) と解釈するのはまあ面白い。しかし、突き詰めて考えると疑問がいっぱい出てきます。
x がインプットだとすると、具体的には何でしょうか。いわゆる五感ですかね。アウトプットは?思考とか行動でしょうね。何かを見て聞いて考える。そして行動する。五感で入力して思考や行動という出力が生まれる。うん。きれいに y = f(x) が出来上がった。本当に?
まず見える/聞こえるなどの五感の受容性について考えてみましょう。分かりやすいように極論で行きます。江戸時代の人間を連れてきてパソコンを見せたら何をするでしょうか?江戸時代の人にパソコンがどう見えるかも分からない。光りがチカチカする箱ですかね?一方われわれにとってみればパソコンはパソコン(これも人によって違うでしょうけどね)。となると、江戸時代の人にとってのパソコンと、現代人にとってのパソコンは、同じインプット = xになるのでしょうか?そうはなりませんね。つまり、このケースでは、現代人では y = f(x) かもしれませんが、江戸時代の人にとってみれば y = f(x''') (xスリーダッシュ)くらいになってる。つまり、インプット自体が異なるわけです。単純に「f() が違う」とだけでは説明できない。
つまり同じものなんてのはない。だから安易に y = f(x) などと一般化できるものではありません。生の x としてパソコンが与えられたとして、そのパソコンは既にその人の持っている知識や歴史から解釈されてしまった上で与えられるのです。生の x そのものが与えられるわけではない。
じゃあ、こうしてみたらどうだろう。上記の解釈ってのを別の関数にするのです。すなわち y = f( g(x) ) 。この g(x) って何だ?カントに言わせれば「想像力」となります。昔の人はちゃんと考えたものです。感心しますね。つまり生(なま)の事象は想像力によってその歴史や知識を包含したものとして実体化される。そうして初めて意識に与えられることになります。
g()が意識に与えられる以前に作用する関数なので、f() ってのは意識に与えられてから作用する関数ということにしましょう。すなわち f() = 「意思とか意識的な解釈」になるかと思います。こうして初めて思考というアウトプットが出てきます。しかしこの意思とか意識ってのがまた厄介です。意識はINPUTから完全中立できるのか?ということですね。もう少し分かりやすく言いましょう。われわれは常に五感を通じて大量の情報を得ています。f() はそこから独立しているのでしょうか。同じ暑い夏でも、暑いのは不愉快だなあと思って考えることと、暑い夏は気持ちいいと思って考えることは違いますよね。ええと。この辺論理大丈夫かな。
長くなってきたので結論を急ぎます。仕事の片手間に文章書く(本職じゃないってことですよ。念のため)というのはある意味ウルトラマンが宇宙人と戦ってるようなもので長時間もたないのです。
たぶん y = f(x) なんてことはあり得なくて、人間のアウトプットなんてf''(f'(f(g''(g'(g(x))))) 位のわけのわからないほどの相互作用やら何やらを経て出てくるものだと思います。叩いたから痛いってわけでもない。誰にどういう状況で叩かれたかによって違ってきます。
だから何が言いたいかというと、人間ってのはいろいろ複雑な世界に生きているんだから、そんな簡単に生きられないんだよね、ってことですかね。
以上。
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2009年4月29日水曜日
死について(なんか唐突ですが)
しみじみ系です。
ハイデガーの「存在と時間」で、現存在とは他でもない自らの死に臨んでいる存在である旨の記載があって、要するにこれを平易に書くと「死ぬのはお前だよ」っていう程度の意味になるかと思います。この本、本質的なレベルまでは理解できてない私に批判も賛同も出来ないんですけど、全体的に何となく違和感がある本です。上手く言葉にはできませんが、この本が刊行されたのが第一次世界大戦中(?)だったという時代背景の違いや、もちろん文化の違いが大きいかと思います。
具体的には「死ぬのはお前だ」「死はお前の死だ」という発想に違和感を感じます。正しいとは思います。でもしばらく生きていると「死ってのはオレのものじゃないよな」というかむしろ「死は愛する人の死」であり「死ぬのはお前の愛する人だ」と言われる方がピンと来る気がする。
ソクラテスがどこかで「死んで無になるなら休めることができて嬉しいし、死んでも魂が残るならそれはそれで嬉しい。ゆえに死ぬこと自体は恐怖でもなんでもない」というようなことを言ってましたが、感覚的にはそれに近い。まあ霊魂が残るとは思ってないので、死んだら要するに眠ったときのような無意識になるんだろうな、と。だったらそれは別に怖いことじゃないなと思っています。若いころは自分が死んで無になると思っただけで底知れぬ恐怖を味わったこともありました。でも今はそうでもありません。
もちろん死に向かうプロセスで苦痛があるのはイヤですけどね。それに思いが残って死んでも死に切れないというのも避けたい。まあこの辺から文章を展開すると、一瞬一瞬を全力で生きよう、明日死ぬとすれば今何をするか、という一般的な啓蒙本に近くなってくるのいったん止めます。
つまり、自分の死なんて大したことない、それよりも周りの死の方がずいぶん重い気がする。やはりかけがえのない存在ってのはあります。それは家族や友人です。自分にとってかけがえのない人の死こそが、人が生きて行くにあたって直面せざるを得ない理不尽で苦痛で悲しみに満ちた「死」だと思います。なんといっても自分の死というのは、死んでしまったら終わりですから。
逆に考えると、私だって誰かにとってはかけがえのない人です。少なくとも子供にとっては。自分の経験から言っても、子供は「お父ちゃんは明日死ぬかもしれない」と思って生きているわけじゃなくて、むしろ自分の両親に限って死ぬはずがない、と思っている。そうなると、やっぱりこれは簡単には死ねないな、と思えてきます。
話は少しズレますが「自殺はなぜいけないか」「殺人はなぜいけないのか」という質問にも、上の流れから言えば、まずはストレートに答えることができます。すなわち「誰かにとってかけがえのない人が自殺するとか、殺されるということはあってはならないから」。まあ意地悪くつつけばほつれそうな回答ですが、さしあたりそれでいいんじゃないか。それは人のものをとってはいけないとか、基本的な倫理の問題だと思います。
となるともう一つ「じゃあ本当に天涯孤独の身で、誰からも必要とされていない存在は自殺しても殺されてもいいのか」というイヤな問いを私は思いつくのですが、やはりそんな人を作ってはいけないというか、仕事なり社会の役割を負わせたり、友人なりを作ったりして、誰かにとってかけがえのない存在になるように、その人も周りも何とかしなければならないんじゃないか、と思います。
さらにズレてニヒルなことを言いますと、仕事ってのは極端を言えば誰にだって出きるんですよね。例えば総理大臣なんて誰がやってもそんなに変わらん。これ以上の喩えはいらないと思います。自分の仕事が総理大臣の仕事以上に重要でかけがえがないものだ、と思っている人は置いといて。残念ながら、組織的に効率的に仕事を進めれば進めるほど、ある立場の人がその人でなくてはならない必然性はなくなってゆく。組織が自らを守ろうとする=組織の中であるポストを得ている人が、自分と周りを守ろうとするのは、自分がいくらでも取替えのきく存在だということが分かっているからかもしれません。
逆にいえば「組織に属すること」をいくら徹底しても「その人のかけがえのなさ」ってのは生まれないってことですよね。まあ、それは極論であって、例えばイチローとかその人でなくちゃ!という役割を果たすことで周りに感動を与えたり貢献することもできなくはないので、仕事だからといってこの自分には無意味だってことにはなりませんね。
まとまってないですが以上。
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ハイデガーの「存在と時間」で、現存在とは他でもない自らの死に臨んでいる存在である旨の記載があって、要するにこれを平易に書くと「死ぬのはお前だよ」っていう程度の意味になるかと思います。この本、本質的なレベルまでは理解できてない私に批判も賛同も出来ないんですけど、全体的に何となく違和感がある本です。上手く言葉にはできませんが、この本が刊行されたのが第一次世界大戦中(?)だったという時代背景の違いや、もちろん文化の違いが大きいかと思います。
具体的には「死ぬのはお前だ」「死はお前の死だ」という発想に違和感を感じます。正しいとは思います。でもしばらく生きていると「死ってのはオレのものじゃないよな」というかむしろ「死は愛する人の死」であり「死ぬのはお前の愛する人だ」と言われる方がピンと来る気がする。
ソクラテスがどこかで「死んで無になるなら休めることができて嬉しいし、死んでも魂が残るならそれはそれで嬉しい。ゆえに死ぬこと自体は恐怖でもなんでもない」というようなことを言ってましたが、感覚的にはそれに近い。まあ霊魂が残るとは思ってないので、死んだら要するに眠ったときのような無意識になるんだろうな、と。だったらそれは別に怖いことじゃないなと思っています。若いころは自分が死んで無になると思っただけで底知れぬ恐怖を味わったこともありました。でも今はそうでもありません。
もちろん死に向かうプロセスで苦痛があるのはイヤですけどね。それに思いが残って死んでも死に切れないというのも避けたい。まあこの辺から文章を展開すると、一瞬一瞬を全力で生きよう、明日死ぬとすれば今何をするか、という一般的な啓蒙本に近くなってくるのいったん止めます。
つまり、自分の死なんて大したことない、それよりも周りの死の方がずいぶん重い気がする。やはりかけがえのない存在ってのはあります。それは家族や友人です。自分にとってかけがえのない人の死こそが、人が生きて行くにあたって直面せざるを得ない理不尽で苦痛で悲しみに満ちた「死」だと思います。なんといっても自分の死というのは、死んでしまったら終わりですから。
逆に考えると、私だって誰かにとってはかけがえのない人です。少なくとも子供にとっては。自分の経験から言っても、子供は「お父ちゃんは明日死ぬかもしれない」と思って生きているわけじゃなくて、むしろ自分の両親に限って死ぬはずがない、と思っている。そうなると、やっぱりこれは簡単には死ねないな、と思えてきます。
話は少しズレますが「自殺はなぜいけないか」「殺人はなぜいけないのか」という質問にも、上の流れから言えば、まずはストレートに答えることができます。すなわち「誰かにとってかけがえのない人が自殺するとか、殺されるということはあってはならないから」。まあ意地悪くつつけばほつれそうな回答ですが、さしあたりそれでいいんじゃないか。それは人のものをとってはいけないとか、基本的な倫理の問題だと思います。
となるともう一つ「じゃあ本当に天涯孤独の身で、誰からも必要とされていない存在は自殺しても殺されてもいいのか」というイヤな問いを私は思いつくのですが、やはりそんな人を作ってはいけないというか、仕事なり社会の役割を負わせたり、友人なりを作ったりして、誰かにとってかけがえのない存在になるように、その人も周りも何とかしなければならないんじゃないか、と思います。
さらにズレてニヒルなことを言いますと、仕事ってのは極端を言えば誰にだって出きるんですよね。例えば総理大臣なんて誰がやってもそんなに変わらん。これ以上の喩えはいらないと思います。自分の仕事が総理大臣の仕事以上に重要でかけがえがないものだ、と思っている人は置いといて。残念ながら、組織的に効率的に仕事を進めれば進めるほど、ある立場の人がその人でなくてはならない必然性はなくなってゆく。組織が自らを守ろうとする=組織の中であるポストを得ている人が、自分と周りを守ろうとするのは、自分がいくらでも取替えのきく存在だということが分かっているからかもしれません。
逆にいえば「組織に属すること」をいくら徹底しても「その人のかけがえのなさ」ってのは生まれないってことですよね。まあ、それは極論であって、例えばイチローとかその人でなくちゃ!という役割を果たすことで周りに感動を与えたり貢献することもできなくはないので、仕事だからといってこの自分には無意味だってことにはなりませんね。
まとまってないですが以上。
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「娘に伝える私の味」はとてもよいけど
前にも少し言及しましたが「娘に伝える私の味」は実にいい本です。
図書館でなにげに借りて読んだらこれこそまさに日本のソウルフードだぜイェ!と思わせるいい本でしたので、妻に薦めてみたところ「なんか読みたくない」とのお言葉を頂いてしまいました。
なぜ?といろいろ話して見ると、どうやら私がPHP(出版社じゃないよ)とかrubyとかの解説書を妻から薦められるよりも数倍もイヤな感じのようです。要するに例によって自分の仕事にダメ出しされてる感覚のようですね。なるほどね。
私にとっては非常に楽しく読める本で、おお。このお煮しめ是非作りたい。とかかんぴょうの巻き寿司。やってみるしか!とか、卵料理どれも美味そうだな。やっぱり美味いものって癒されるよねー、と日々飽きずに眺めているのですが、しかし残念ながら妻の予感通り、夫婦生活においては地雷となりかねない内容も散見されました。
この本から読み取れる人物像は、義理の父に可愛がられ、旦那に尽くし、子供たちから尊敬されるまさに良妻賢母。そりゃあ大変なこともあったでしょう。なんたって戦争をくぐり抜けてますからね。でもそれをものともせず凛として生き延びたお母さん像が鮮やかでして。すなわち、これを世の奥さんが読んだ場合は、「どうせあたしなんか」と落ち込まれることもあるかもしれないし、下手をすれば逆ギレされて攻撃される「あんたこんなお母さんがいいんでしょう。フン!このマザコン野郎!」とか、いわんやフェミニズムとかに共感していてジェンダーとかいうボキャブラリを持つ妻においてをや、かなりのツラい状況になるんじゃないかと思わせられました。考えすぎか。そう思いたい。
この本を隠れて読み、そして泣くがいい。世のマズメシ嫁持ち旦那よ。(いや、ウチの嫁は大丈夫ですよ。ホントだってば!)
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図書館でなにげに借りて読んだらこれこそまさに日本のソウルフードだぜイェ!と思わせるいい本でしたので、妻に薦めてみたところ「なんか読みたくない」とのお言葉を頂いてしまいました。
なぜ?といろいろ話して見ると、どうやら私がPHP(出版社じゃないよ)とかrubyとかの解説書を妻から薦められるよりも数倍もイヤな感じのようです。要するに例によって自分の仕事にダメ出しされてる感覚のようですね。なるほどね。
私にとっては非常に楽しく読める本で、おお。このお煮しめ是非作りたい。とかかんぴょうの巻き寿司。やってみるしか!とか、卵料理どれも美味そうだな。やっぱり美味いものって癒されるよねー、と日々飽きずに眺めているのですが、しかし残念ながら妻の予感通り、夫婦生活においては地雷となりかねない内容も散見されました。
この本から読み取れる人物像は、義理の父に可愛がられ、旦那に尽くし、子供たちから尊敬されるまさに良妻賢母。そりゃあ大変なこともあったでしょう。なんたって戦争をくぐり抜けてますからね。でもそれをものともせず凛として生き延びたお母さん像が鮮やかでして。すなわち、これを世の奥さんが読んだ場合は、「どうせあたしなんか」と落ち込まれることもあるかもしれないし、下手をすれば逆ギレされて攻撃される「あんたこんなお母さんがいいんでしょう。フン!このマザコン野郎!」とか、いわんやフェミニズムとかに共感していてジェンダーとかいうボキャブラリを持つ妻においてをや、かなりのツラい状況になるんじゃないかと思わせられました。考えすぎか。そう思いたい。
この本を隠れて読み、そして泣くがいい。世のマズメシ嫁持ち旦那よ。(いや、ウチの嫁は大丈夫ですよ。ホントだってば!)
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2009年4月26日日曜日
(朝食)バターロール、カレースープ (夕食)水菜と油揚げの煮物、イナダの塩焼き、野菜サラダ
バターロールです。イーストの量はほぼ半量での冷蔵発酵。ちょうどいい
(写真右端)二次発酵もいい感じです。
焼き上がり。昨日の残りの塩豚カレーを牛乳で割ったスープとともに頂きます。カレーはまあまあ。パンは(゚д゚)ウマー。
最近、妻も遠慮なく「美味い」「まずい」と言うようになりました。朝に焼きたてパンを食べると、一次発酵に多少失敗してようが美味いといってもやぶさかでないわけですが、率直に「いまいち」と言ってくれれば、それはそれで有意義な指摘であります。まあ、今回は「美味かった」(私もそう思った)ということでOK。
夕食は水菜と油揚げの煮物とイナダの塩焼き、そして写真にはありませんが、レタスときゅうりとトマトのサラダ(私は新タマネギのスライスつき)。そら美味かったでっせ。ふっふっふ。
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(写真右端)二次発酵もいい感じです。
焼き上がり。昨日の残りの塩豚カレーを牛乳で割ったスープとともに頂きます。カレーはまあまあ。パンは(゚д゚)ウマー。
最近、妻も遠慮なく「美味い」「まずい」と言うようになりました。朝に焼きたてパンを食べると、一次発酵に多少失敗してようが美味いといってもやぶさかでないわけですが、率直に「いまいち」と言ってくれれば、それはそれで有意義な指摘であります。まあ、今回は「美味かった」(私もそう思った)ということでOK。
夕食は水菜と油揚げの煮物とイナダの塩焼き、そして写真にはありませんが、レタスときゅうりとトマトのサラダ(私は新タマネギのスライスつき)。そら美味かったでっせ。ふっふっふ。
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