ほとんど何の感慨もなく淡々と読了。
福沢諭吉が語ったとかいう、民主主義は「私立」(個人が精神的に自立するという意味か)を腐らせる云々の箇所は一瞬どきっとしましたが、よく考えてみると別に大した洞察でもないか、と。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
ほとんど何の感慨もなく淡々と読了。
福沢諭吉が語ったとかいう、民主主義は「私立」(個人が精神的に自立するという意味か)を腐らせる云々の箇所は一瞬どきっとしましたが、よく考えてみると別に大した洞察でもないか、と。
やはり鈴木大拙は偉大であった。よく分からないながらも、そんな風に思わされる本です。
何故に最近流行らないか。デリダだドゥルーズだとか言ってないで、日本人はもっと禅の思想を研究し、海外に発信すべきなんでしょうなあ。
秋月さんも私は好きなのですが、この人の著作を読んでいると、却って古き良き時代の終焉が感じられて寂しい気がします。まあ、またいつか禅が復興することもあるでしょう。蒔かれた種はいつか芽を出す。
竹田さんというのは、日本の哲学学者にしては珍しく、自分でどんどん考えて主張する方で、非常に貴重なのですが、今回は少し期待外れ。
ハイデガー思想のまとめ方はさすがなのですが、いまいち心に響かなかった。
いや、これはむしろ私の問題かもしれないな。最近、哲学思想単体には容易に惹かれなくなった。特に西洋哲学。西洋哲学者のバック背景にはキリストが大きくそびえていることが分かった。つまり、キリスト教が分からないと西洋哲学は分からない、そんな風に思えてきた。西洋哲学を追うのなんて、表層的な活動に過ぎないんじゃないかと。彼らの著作を読むばかりでは、ほんとうのところが分からないんじゃないか、と。
それから、ハイデガーの私にとっての意味が薄れてきた、そういうのもありそうです。南無三。
面白かった。鬱が癒された、というと大げさですが、それに近い読後感があります。力が抜ける。前向きになれる。
ところが、ところがですね。これを妻に勧めて読んでもらったところ、疲れた。腹が立ったというのですね。
そうはいっても努力しなければだめでしょう。世間が狂ってるだとか傲慢だ。みんな一生懸命生きてるのに。
私とは全く逆の感想を持ったわけです。二人で話し合って、何とかお互いの理解を確認しましたがね。
これは自ら世間に属していると思っている人と、世間に倦んでいる人との違いだと思います。ひろさんの著作に反感を持ったとすれば、それはすなわち深刻に悩まずに生きているということだろうから、それはそれでいいのかもしれません。なんてことを言うとまた傲慢だとか怒られるかもしれませんが。
確かに仏教にはあからさまというか身も蓋もないなところがあって、その辺は一回思い詰めないと分からないのではないか、と。人と人の間には深遠が広がっておる。
しばらく前のデータです。ピクニック日和でした。
どんなに疲れていても、外で家族で食べる弁当は実に美味い。
朝ムリして頑張って弁当やサンドイッチを作り、なんとなくあわただしくて心の余裕も無くして、いっぱいいっぱいになったところに子供たちが浮かれて騒ぎ出すものだから、いっそう頭に来たりして、もうこんなに疲れてイライラしてんだからいっそ外に出るのやめて家で寝てようかと、ピクニックの準備をするたびに真剣に思うのですが、行ってみると楽しいんですわ。
鶏ささみ肉を麺棒で叩きます。観音開きやるより早いし簡単。
小麦粉まぶして
卵液に浸してパン粉を付けて
揚げ焼き。
ホイッと完成。
水気を切ったレタスとともにパンにはさみます。ツナサンドも一緒に作ってます。
狭山公園に到着。西武沿線奥地らしい、だだっ広くて田舎くさい公園です。だがそこがイイ。
拡大新緑。
拡大さくらんぼが落ちてました。
サンドウィッチ。
チキンカツサンド!美味かった。
ツナサンド!美味かった。
レジャーシートの上にひっくり返って木漏れ日を眺めたり。
ヨコズナサシガメが捕食してるのを眺めたり。
帰宅。
看板に偽りなし。引退したスパイによる、スパイになるための、そしてスパイとして生きるためのガイド。面白かったものの、他人事ですわ。逆にいまいち興味関心から離れていたとしても面白い。ユニークな本。
生と死は本来一つである。人は生まれながらに死んでおり、死にながら生きている。生は死であり、死は生である。また、それ故に生は死にあらず。死は生にあらず。不生不滅なり。という文言がすうっと語られます。言葉に力がある。この人の思想が継続して研究されないのはもったいない気がするけれど。
いまいちピンとこないまま、翻訳の優秀さに引きずられて読了。でも、言説(ディスクール)と言表の違いなんて興味ないっす。なんでこんなことしつこく書いてるんかと思ったら、どうやらフーコーの自著に対する方法論的な補足やら解説やらであるらしい。だったら他の著書を読み込まんと、この本は分からんですな。
いい話てんこもりでした。
本の最後に、個人的に引っかかっていた「仏教は努力をどう評価するのか」についての話がありましたが、完全には納得できず。やはり努力は虚しい、と仏教はそっちの方向に行くような気がする。だから仏教はよくないとは言いませんが。個人的には何とか折り合いを付けたいところです。対機説法というから、ワリと強い人向けの説明が出来るに違いない。ま、宿題ということで。
怖い本でした。凄まじいばかりの現実。私も一時期、こんな職場にいました。鬱でした。妻や子供に不機嫌な態度を取っていました。他人事ではない。
タフなモーレツ社員が出世するわけです。極めて残念なことながら。効率は二の次。とにかく長時間、馬車馬のように働き、働かせる人間が上司になる確率が高い。そのような上司の主張は単純です。全てを完全にやれ。
いや、そうじゃないでしょう。費用対効果の高い仕事にリソースを注ぎ込むべきだ。時間は有限なのだから(ドラッカーが日本で受けるのは、精神論でギリギリまで突き進む社畜に対向したい人が多いからかも)。私は相当上司に文句をいったし、間接的なボイコットのようなこともやった。恥も外聞もなく、もうできない、勘弁してくれと白旗も上げた。最終的には辞職した。やはりしんどかった。本当に疲れた。自分で言うのも何ですが、私は芯が強い方だと思う。気持ちの弱い人は滅茶苦茶に働かされるにちがいない。潰される人だっているかもしれない。
子供にはできるだけ幸せになって欲しい。そのためにはどうすればいいのだろうと思い患う日々。
まるで戦争のようなサラリーマン人生。これで幸せになれるはずがない。どこかで歯止めを効かせなければならないのではないか、と。
★★★★★☆:もう嫌米でいいんじゃないか
かなり現代的で政治的で生々しい本でした。ひろさちやさんにしては、と違和感。
アメリカがどれほど日本に負の影響を与えているか。アメリカによってどれほど日本がダメになったか。
別に中国韓国が持ち上げられているわけではありません。虚心坦懐、あさましい日本社会の現状、政治家たち、経済家たち、会社にしがみつく仕事人間たちの姿を眺めて必然的に浮かぶ、血の滲む叱咤なのではないか、と。
これほど立派な宗教家の口から、明らかな嫌米思想が吐露されると、どうもこれは、となかなか衝撃的でありました。
やっぱそうだよなあ。
もちろん、それだけではありません。日本のサラリーマンが奴隷と化している、そのことを悲痛な面持ちで眺めるひろさちやさんの姿が目に浮かびます。
日本をどうにかせんとあかんのではないか。南無阿弥陀仏。
今から思えば今回の鬱の初期症状は、むやみに不機嫌であった、そのことでした。
なんか人の顔を見れば腹が立つ。特に仕事。最近私も丸くなって、あまり「アノヤロー」とかしつこく思わなくなったのですが、それにしても、なんとなく腹が立つ。そんな感じです。
不機嫌になってくると、なるたけ目を合わさないように話すとか、そんな挙動不審な態度だったのではないか、と思います。やはり仕事仲間だから、むやみにチームの人間に当たるわけにはゆかぬ。勤めて、なるべく笑顔で働いておりました。
それから酒量が増えた。というか酒が美味く感じるようになった。
平行して眠りが浅くなっていった。
この辺、どちらが原因かはわかりません。
(1)ストレス → (2)酒がうめー → (3)眠りが浅い
上記、(2)、(3)あたりは因果関係がはっきりしない。ほとんど同時じゃなかろうか。
では(1)ストレスの原因は何か。それはもう辿れません。体調が原因かもしれぬ。となれば、ひょっとしたら
(3)眠りが浅い → (1)ストレス(耐性が落ちる) → (2)酒がうめー
すなわち鶏と卵。どちらが先か。というか、最近改めて感じるのですが、直線的な時系列での因果関係というのは完全に間違いですね。誤謬。幻想。そんなものはありゃしない。世の中そんな簡単じゃねーよ。ああすればこうなる。そんなのウソだ。大ウソ。縁があって因がある。縁によって起こり、因によって果が生じるのです。まさに因縁。成るべくして成るのだ。
それから、これも事象としてはパラレル(すなわち単純な因果ではなく、縁によって起こったもの)ですが、禅と仏教に非常に興味を持ち始めた。このブログをたどれば4月の上旬からその傾向が見られます。で、最近ひろさちやさんの著作にはまってますが、それと同時に鬱を脱しつつある。これもまた縁でしょう。単純な因果ではなかろう。人生不思議なものでございます。