2009年6月20日土曜日

カレーその他

いろいろありました。妻が外出で朝から子守。学校、幼稚園行事とかもあって。

本日は久しぶりにパパパン屋休業です。朝にパンを焼く暇もなし。朝食は妻が作りました。

昼はモスバーガー。4歳の娘が「お肉が美味しくなった気がする」とのたまうので、子供セットのチキンバーガーを一口頂戴してみると確かに変わっている。微妙に香辛料が効いているのと、鶏肉の味がするようになった気がします。確かに以前より美味しくなった。一時期モスが不味かった、そんなイメージがあったので、改善したのだろうか、と思いを馳せたり。でもハーブっぽい感じは子供向けじゃないけどな。


塩豚です。仕込んだことをすっかり忘れてました。問題なさげな様子。しっかり塩抜き中です。塩豚って不思議です。腐敗も発酵もしないのか。塩のパワーか。世の中分からないことが多い。(15分超塩抜きしましたが、カレーにするとまだしょっぱかった。)

 塩豚、ニンジン、タマネギを茹でます。

 オクラとインゲンを茹でて、ピーマンと茄子を高温でさっといためます。

 別途ジャガイモを蒸します。

 塩豚+ニンジン+タマネギ鍋にSBのカレールーを投入。
ダマになったカレー粉は、カレー写真を台無しにしますな。

 
出来上がり。ライスと、炒めたナス・ピーマン、煮たインゲン・オクラ、蒸したジャガイモを並べて上から濃いめのカレールーをかけます。

美味かったです。こんなカレーもアリ。
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2009年6月19日金曜日

文章を書くということ 「言葉と無意識」丸山圭三郎 講談社学術新書「ソシュール」J.カラー著 川本茂雄訳 岩波同時代ライブラリー

★★★★★☆:一点突破の思想は大好き

実はこうやってブログを書いている動機が自分にもよく分かっていません。変な話ですが。でも何か意識的な動機がないっつのも自分でも落ち着かないので、自己慰安のためという便宜的なモチベーションを看板にしています。あとは文章を書く訓練という位置づけもありますね。ブログにアップされた文章は、当り前ですが誰かに読まれている可能性がある。あまり拙い文章を書くのは恥ずかしいという緊張感がある。それとは別に、やむにやまれず、とにかく文章をものしていると思うこともあります。それも本心。

シンプルに考えてみると、何かを書こうと思う時、その直接的な動機は「ネタがあった」ということになりますけどね。ネタがあったから書いた。それだけ。真理は単純である、と。

そのネタにも当然いろいろあって、たとえば腹が立った系のネタとか、面白い出来事があった系のネタとか悲しかった系のネタとか。もちろんこんなに楽しいことがあった、心温まることがあった、とそういうことばかり書きたいのですが、世の中そう甘くはないわけで、腹が立ったから書くってことがよくあります。残念ながら。でも怒りを直接ブログにぶちまけるのはみっともないし、そんなもの読み返したくもないし、ある程度は怒りを昇華させてから書くことになります。なぜ自分は怒りを感じたのか。どうあるべきなのか。とかとか。するとやっぱり少しはすっきりする。不安の対象を明確にすれば不安が消えるのと同じで、怒りの対象を明確にすればある程度は怒りを消すことができます。

まあそんなことはさておいて、文章を書いて楽しいのは「よく書けたな」と思える文章が書けたときなわけですが、「よく書けた文章」ってどこか私自身を超え出ているんですよ。具体的には自分の言いたいことを超えて、別の効果を生み出している。

いや、別の言い方もできるな。つまり、文章を*使って*言いたかったことを100%ストレートにそのまま伝えることはできない。逆に全く意図しない印象を与えてしまうことの方がよくある。いや違うな。そうじゃなくて最終的に文章が与えるであろう印象って完全にコントロールできないと言った方が正確ですね。で、そもそも文章っていうのはそういうものだ、と。文章を書くってのは能動的な行動な訳ですが、その結果を全てコントロールできるわけではない。そのコントロール困難なプラスアルファがたまたまよい印象を生みだすとき、それはよい文章になる。

つまり、文章を書くってのは、何か伝えたいことがそのままソリッドな実体として存在していて、それを100%正確に写し取る作業なんかではない。言葉以前のソリッドな実体なんてないんです。言いかえれば言葉にならない対象が明確にあらかじめ存在していて「それ」を後付けで表現するのではない。言葉にするまで「それ」は存在しない。言葉が生まれ育つのとパラレルに「それ」が生まれ育ってゆく。言葉が「それ」であり「それ」が言葉である。文章を書くという行為は、言葉を制御する作業であり、言葉に翻弄される作業であり、あるいは言葉が自力で展開するのを手助けする作業でもある。以上が文章を書き連ねていて気がついたことの一つ。

それから文章を書いていて論理の無力さを感じることがよくあります。Aである。Bである。ゆえにCでなければならない。こう書くことが非常に空しい。胡散臭い。文章を書いていると、論理なんてのは常識的で理解が容易な文章を書くために必要な一つの規約に過ぎないのではないか、そんな気すらしてきます。まあ、このあたりのことはまた別の機会に。

で、ソシュールなわけですよ。

▽「言葉と無意識」丸山圭三郎 講談社学術新書

▽「ソシュール」J.カラー著 川本茂雄訳 岩波同時代ライブラリー

とは言いつつ、ソシュールについてはまたいつか書きます。所詮言葉だぜ。で、言葉ってのは差異から成り立ってるんだぜ。同一性ってのは、言葉が反復可能である、そこから来ているに過ぎないんだぜ。ってスゲーこと言ってるんですよね。このソシュールって人は。ニーチェよりもイッっちゃってる。あまりにもスゴイので半分酔った頭では何も書けませんので。これにて失礼。
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35mm2.0f試し撮り

購入した35mmF2.0でいろいろ撮ってみました。

Nikon F70に装着すると50mm強の焦点距離となります。いわゆる標準レンズです。いい感じですね。絞り8とか11で風景を写すと広角レンズっぽい味わいになりますし、絞り開放で接近して撮ると中望遠マクロっぽい仕上がりになります。50mm(実効75mm)よりは対象に迫れませんが、まあそれも味ということで。

 広角っぽい感じで。ホワイトバランス間違えた様子。
 何の変哲もないアジサイ。
うす曇りの淀んだ日ですが、露出オーバー気味で取ると明るくなります。

 足が3本の蜘蛛の子供。何があったのか。
これはマクロレンズっぽい感じで。

 苔むした樹肌
 またもただのアジサイ。ピント甘し。さすが素人。
 なんだろうこれ。
 こっちは桑の実だと思う。

しかしデジタルになってから本当に写真が気楽に撮れるようになりました。

フィルムカメラ時代の撮影コスト。フィルム代と現像代で下手したら1500円くらいかかってたと思います。それがタダ同然ですからね。しかも撮ってすぐに確認できる。露出も気楽に変えられるし。フィルムカメラの質感と不自由さも好きなんだけど、やはりコストには変えられない。むむう。
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2009年6月16日火曜日

アリストテレス「形而上学」岩波文庫

★★☆☆☆☆:教養ですかね。しかも余分な

まあずいぶんと昔の本です。しかし非常に興味深い。

どこが興味深いか。やはりアリストテレスはちゃんと考えた人だってことがよく分かる。思考が徹底していますね。雑じゃない。なぜ考えるか。何を考えるか。どのように考えるか。簡単にバサッと切り捨てない。ちゃんと詰めて詰めて考えている。本質と属性とか、矛盾律と排中律とか、日本語にしてしまうといまいち古臭い概念や方法を使っているのですが、何というか対象や具体例に沿って考えられている感じがする。アルケーとかエイドスとかいったギリシャ語の平仮名表記から古代ギリシャに生きた哲人の息使いとともに言葉の力が伝わってくる気がする。

この本の最初の方に、実用的には学的認識=方法論=テクネー(技術とか訳されてますが)よりも経験(エンテレケイア)の方が優れていることを認める箇所があります。もちろん最終的には学問的な知識がより一層物事の本質を説明するがゆえに優れている、という主張に結び付くのですが、そうは言っても例えば病気そのものが存在するわけではなく、存在するのはあくまで具体的な個々のは患者だ、などという箇所もあって、学問的認識は経験より上位のものではあるが、より有用とは言えない、という考えが見て取れます。そこから私は抽象的な知識=学問に拘泥することにアリストテレスが持っているであろう(憶測)若干の後ろめたさを感じましたね。

とにかく徹底して考えていて、息苦しささえ感じます。なるほど。西洋人の考える「論理」とは、これほど強制力があるものなのか、と思います。また、これを読むとアリストテレス以降で何かが大きく変わったんだろうな、と見て取れます。ソクラテス以前の思想家やプラトンでさえもアリストテレスに比べればほとんど神話を語ったに過ぎないのではないか。

でもやはり息苦しさはありますね。まさにガチガチの科学的態度。西洋人のメンタリティここにありって感じで。いや、西洋人だけじゃないな。ロジックやら規則やら法則を「こうでなくちゃならない!」と盲目的に信じる人を前にした息苦しさに近いものも感じます。なぜだろう。アリストテレスは決してそんな人ではないはずなのに。

たとえばこの人は徹底的に矛盾律や排中律の妥当性を訴えている。しかし、物事ってそんなに簡単に割り切れないよな、と私なんかは考えてしまう。たとえば人間は男であるか女であるかのいずれかである。生物学的にも社会的にもそんなに簡単にはいかなくなってますしね。とにかくややこしい時代になった。

それはさておき、この人が哲学(知への愛=フィロソフォス)に向かう態度は非常に真摯でかつ緻密で参考になります。うん。試しにシステム構築プロジェクトを有名な四原因説で解釈してみよう。

四原因説ってのは、物事は四つの原因で説明できるよ、という説です。ひとつ目が形相因。物事の本質です。それが何であるか。それから質料因。それが何からできているか。次に動力因。それがどうやって動いているか。何が動かしているか。それから目的因。何のためにそれがあるのか。

私は普段から「原因と結果なんてのは妄想だ」と言ってるんですけど、アリストテレスの言う原因は「なぜかという説明」であって、単純に時系列をひっくり返してまやかしの原因を産み出す方法ではありません。

このフレームワークに従ってシステムとシステム構築プロジェクトについて考えてみましょう。頭の体操です。

【形相因】
まずは形相因。本質ってやつですな。プロジェクト一般ではなく、個別のプロジェクトについて考えます。プロジェクト一般の本質となると、PMPにあるような「限られた時間内に限られたリソースを使って目的のものを作ること」となりますが、それじゃああまりに無味乾燥。そんな定義じゃ何も出てこない。

じゃあ例えば会計システム構築プロジェクトの本質とは何か。うむ。結構難しいですね。まず本質ってのは余計な属性を省いたものですよね。ええと、まずは会計システムの本質。インプットとして金(売掛金借金動産など)の入出金情報があって、アウトプットとして企業経営の意思決定に必要な情報や、外部に提示する決算情報などを出すもの。そんなところでしょうか。

では会計システム構築プロジェクトの本質とは何か。人がまず何人も集まって、いろいろ顧客の要求を聞いたり整理して、システムを設計して、コーディングして、テストして、納品することですかね。おや?会計という言葉が出てきませんね。しかし顧客の要求は会計に関連する業務が盛りだくさんのはずです。これもなんだか無味乾燥な気がするな。まあいいや。

【質料因】
では次は質料因です。

プロジェクトがどんなものから成り立っているか。金。人間。情報(スケジュールや設計書、議事録など)。そんなところでしょうか。システムの質料因を考えればマシンもありますね。それからOSやミドルウェア、プログラム。

【動力因】
モチベーションですかね。とすればまずは金。それから顧客やエンジニアの良いものを作りたい、という気持ち。上からのプレッシャー。よい評価を受けたいとか、出世欲もあるでしょう。

システムの動く原因。難しいな。まずは電気。それからネットワーク。そしてスケジューラ、ジョブ制御ソフトウェア(TivoliとかJP1とか)。あとは入出力データの仕込みやら何やら。ユーザーさんのインプット処理も動力因ですね。

【目的因】
何のためにプロジェクトがあるか。それはシステムを作るため。なぜ会計システムがあるか。それは企業の業績を向上させるため。

とまあ、四原因説というフレームワークを使えばきめ細かく考えることができるわけですね。ここではざっと流しましたが、個別の項目をどんどん深く突き詰めることもできる。例えば電気はどうやって作られるか、とかとか。

ええと、形而上学に話を戻しますと、上巻の最初の方にこんなたとえ話が出てきます。家を建てるにあたって、個々の職人と棟梁とどちらが偉いか。その答えは棟梁が偉い。なぜなら個々の職人は自分が担当している領域については何を作ればいいかその材質は何か細かく把握しているが、全体を把握しているのは棟梁だから。

翻ってシステム構築プロジェクト。プログラマとプロジェクトマネージャーはどちらが偉いか。プログラマは自分のコードしか分からないが、プロジェクトマネージャーはすべてのコンポーネントについて把握して・・・・ますかね。はなはだ疑問だ。むしろ一番無知なのがプロジェクトマネージャーだったりしません?四原因フレームワークでプロジェクトをとらえたとき、プロジェクトの全体を理解することの難しさに気が付きます。

プロジェクトやシステムについて、いかに自分が分かっていないかをたまには反省すべきでしょうね。OSやTCP/IP一つ取ったってそんなに簡単じゃないぜ。

以上。
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2009年6月15日月曜日

郵政民営化 私的印象総括

まあ経済方面には疎いので、あくまで「印象」ということです。

専門家の出す数字とかロジックを素直に信用するわけにもいかないので、立ち位置ははっきりさせた方がいいです。経験的に言って。

もちろん印象は印象。説得力のある反証や反論があれば認めます。

郵政が民営化されればどうなるか。経営層が変わるんでしょうな。官僚の天下りから民間経営層の横展開へ。っていうかこれは事実か。そして現場で働く人間が一部変わるでしょう。おそらくや派遣社員が増えるんじゃないかな。これも事実なのかな。よく知りませんが。それからリストラも行われるでしょう。

一方で組織の枠というか仕組みは変わらないでしょうね。サービスが少しは良くなるかな。でも郵政のサービスがよくなれば、ヤマト運輸やら佐川の業務にも影響が出るでしょう。それに中の人の仕事も増えるから、一概に嬉しい人ばかりでもあるまい。

つまり枠は変わらない。変わるのは中の人。サービスについてはプラスマイナスゼロ。よくはなるかもしれないけど、それによって大変になる人や苦しむ人も出るでしょうから。まあ、これは競争社会だからしょうがないか。

経営層に立つのはどんな人か。資本主義社会の成功した経営者たちですな。下で働く人は別段豊かになることはないでしょう。こんな大仰な政治的イベントなんだから、現場からの生え抜き社長が生まれることはありえない。ネームバリューのある市場主義株主第一主義の経営者が呼ばれる。

連想するのはやはりアメリカ流資本主義における経営者層の固定化。金持ちは金持ちに。末端は末端に留まり、給料が下がる。組織を効率化して生まれた利益はどこから出るか。労働者から。そしてその利益はどこへ行くか。新たなる既得権益層へ。

そして郵政の持っている巨大資産も宮内などに買いたたかれる。効率的に運用すると言っても、それによって得をするのは誰なんでしょう。

結局民営化で得するのは強欲資本主義で頭角を現した新既得権益層に過ぎないんじゃないかな。

こんな見方はネガティブに過ぎますかね。

「構造改革なしに景気回復なし」か。今となって冷静にみればロジックにすらなってないじゃん。小泉のスローガンに騙されていた。そんな風に思ったのは私だけでしょうか。そうじゃないよね。
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2009年6月14日日曜日

35mmf2.0散歩、蕎麦屋で外食、大雨

先ほどのブログをUPしてから子供を連れて散歩に行きました。妻は昼寝。

今日の夜は外で食べる予定です。本日子供たちは近所の公園しか行っていないので、たまには外食も良かろう、と。

とりあえず外出。チビどものパワーはありあまってる様子。チビのパワーは親の精気を吸い取るブラックホール。ゆえにキケン。まず小さい方のパワーを物欲に向けるため靴屋に行き、サンダルを買いました。サンリオとかそういうやつ。それから私の靴。ダサくてビジネスシーンには超ビミューだけど安くて歩きやすそうな靴があって、そろそろ靴を買い換えたいと思ったのでためしに履いてみたらサイズが合わなくて断念。革靴って理不尽だよなあ。今度はもう見栄えもへったくれもなく歩きやすい靴を買いたい。梅雨だし。と心の叫び。革靴もう勘弁してほしい。

  

妻と合流。
  
ぶっかけソバ(冷:私)やらなめこソバ(温:妻)やらかけうどん(子供。ただのうどんが食べたい!と主張していた)やら食べました。

帰りは大雨。ずぶぬれ。もう大変。でも子供はおおはしゃぎで楽しそう。バカみたいな騒ぎようだったけど、確かにある程度以上雨をかぶるとどうでもよくなりますね。昔スーツのままズブズブで帰宅したこともあったな。あれはあれでヤケクソ感とともにだってしょうがないじゃないか。袖も足元も靴下もぐちゃぐちゃで靴なんかずっぽんずっぽんだぜ。でもパンツまではぬれてないぜ。みたいなプリミティブな楽しさがあったよな。子供たちもそんな感じで楽しんでいる様子。まあ、たまの外食。帰り道に大雨に襲われたことでも、少しでも思い出に残ってくれれば。
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パン、マカロニサラダ、Nikkorレンズ35mmf2.0購入、たこ焼き

今日は雨を覚悟してました。すなわちどこにも行けないだろうからぐだぐだ部屋で過ごそうか、と。子供にはかわいそうだけど。

というわけで朝食ものんびりモード。夜間発酵なしで朝からパン作り。朝7時15分頃着手。プリキュアが終了する9時が目標完成時刻。
 

 

しかし雨が降る気配がないんですな。天気予報を見ると朝の降水確率が10%。午後~夜が50%。これはちょっと出かけられるかも?ということで、思い切ってNikonの35mm単焦点レンズを買いに行くことにしました。もちろん単独行動です。妻と子供は留守番。許せ。

なぜ35mmの単焦点か。50mm単焦点のf1.4が思った以上に楽しかったんですよ。絞りとシャッタースピードを調整してマニュアルでピント合わせ。これだぜって感じで。最初は露出優先モードが使えないとキツいかなあ、と思ってたんですが案ずるより産むが易し。露出が計れているようなので、全然問題なかったです。つーかやっぱカメラはマニュアルモードっしょ?という自己陶酔も味わえて一石二鳥。おもしろいことに不自由さもまたカメラを使う楽しみを増幅してくれる。すなわち一石三鳥。

しかし、一つだけ欠点があって、50mmレンズをD70に装着すると、実効では75mmくらいになるんですわ。これが結構ビミョウな焦点距離。

写真をちょっとかじったことのある方にはお分かりでしょうがレンズって一般に以下のような感じで分類されています。

24mm~35mm 広角レンズ。広く景色を取り込める。
50mm 標準レンズ。人間の視野角に近いとか言われる。望遠チックにも広角チックにも使える。
85mm~120mm(?) 中望遠、ポートレートレンズ。人の意識が集まっている対象を見る感じになるらしい。
その上は縁がないのでよく分かりません。高いし。

すなわち75mmって対象にバッチリ迫ろうかと思えばまわりに雑音が入るし、じゃあまわりを取り込んで風景的に撮ろうかと思えば中央に迫りすぎている。結構使いづらいんです。

まあ、んな細かいこと言わなくとも、料理写真メインのしかもブログ用であれば、多少の雑音は後でばっさりトリムするつもりで撮ればいいんですけどね。所詮素人だしさ。

でもナニゲに外で撮影しようとするとやはりイマイチ。と言うわけで昨日あたりから35mm(D70装着で53mmくらいかな)の単焦点が欲しいと思っていたのでした。

で買いましたよ。BICカメラ見てヨドバシ見てMAPカメラみて新宿中古カメラ市場見て、決めたのは中古35mmのf2.0無印@新宿中古カメラ市場。フィルタ付きで15,500円。しかしなんだろうな、f2.0とf2.0Dでは下手したら1万円ほど料金が違うんだよな。う~ん。まあいいや。

早速ためし撮り。
 西口の猥雑なあたり。
予想外だったのは、50mmf1.4無印とは違ってAF(オートフォーカス)も効くし絞り優先モードも出来ること。何が違うんだろうな。うーん。こうなると却ってつまらないな。もう少し不自由な方がぶつぶつ。と思いながら当然のようにマニュアルモードで使います。

 
思い出横丁。昼間っからモツだの焼き鳥だの突付いて呑んでますよ。

で楽しい買い物旅行は終わり。
  
帰宅して昼はたこ焼き。妻が出汁を取り、私が材料を刻み、妻が焼くという分担。(゚д゚)ウマーでした。
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