2010年7月10日土曜日

選挙楽しいすなあ

こんなに選挙が楽しいとは思いませんでしたね。20代はバカにしてた。30代に入ると「ムダムダムダ」と思いながら投票してた。

と回想しつつ、調べては悩む毎日。毎日といっても三日前からです。にわか選挙対策。なんとなく選挙始まったか、と思ってたら、え?投票日は明後日?みたいな。

ということでいろいろ調べ中でございます。

個人的な優先度付け。

まずアメリカ言いなりは腹が立つからヤメロ、と。これは理論的というより感情的な理由です。

それから公務員のリストラ。公務員厚遇を何とかしろ。消費税云々するより前に公務員なんとかしろ。手当餓鬼め。もう保身しか考えないような組織は不要だ。成果すなわちおのれに還元される金だと思ってないか。心ある人たちのルポ、ノンフィクションを読むと、正しいことを実行しようとするとき、日本の官僚が必ず障害になっている。ジャマをしている。キャリア公務員どもは受験エリートである。受験エリートは素直である。素直であるが故に自己の組織の保全に全力を尽くす。エリート公務員どもよ。去れ。恥を知れ。あんたたちが仕事をしない、そのことこそが日本のためだ。心あるエリート公務員よ。組織を見るな。外部の、苦しんでいる市井の人々に目を向けよ。組織ではなく、外部の人間が感謝する仕事をしたまえ。税金から給料をもらっているのだ。公務員の成果は、税金の支払元に還元されるべき。税金の還元先はあなたの上司か?

次に消費税反対。むしろ法人税上げろ。法人税は企業が工夫すれば削減できると思う。社員の給与を上げれば利益は減るさ。経営者は法人税増税反対する前に、従業員の給料を上げてみろコラ。一方で、消費税は商店、スーパーのレジであまねく取られる。これはいかがなものか。10%上がるとすると、スーパーのレジで支払う金額が約5%上がるワケ。これまで1000円に対して50円払っていたのが、100円になる。これってイタいよ。私は土日はワリと自分でスーパー行きますけど、5%の値上がりはじわじわ来るんじゃないかしら。マスゴミあたりが消費税不況だと騒ぐでしょうし。ちょっとどうか。愚策じゃないかと思います。

それから反小泉竹中。これはもう感情的なものですな。許さん。

後は自民からの離脱系は信用ならん気がしてます。これも偏見だな。だからか、「立ち上がれ」も「みんな」もどうもイマイチ心を許せない。理性的じゃないかもしれない。でも、元自民なら、なんとなく寝技でアメリカの言いなりになりそうな気がするのだ。

民主。がっかりした。人材不足を露呈したか。小沢さんには同情的ではあるが、管さんの消費税10%、官僚重視方向性には失望。

さて、どこの入れようかなあ。ま、おれの一票なぞ、ほとんど影響しないわけではありますが、投票とは自らの気持ちを決めること。自分の気持ちが変われば世界は変わるからね。「紙切れ一枚で何か変わるか」とバカにする人にはこう言う。紙切れ一枚であんたが変わるんだよ。あんたが変われば世界は変わるじゃないか。

当日後記) いろいろ調べて思った。植草さんは非常にまともだと思います。誠実さが伝わってくる。

2010年7月9日金曜日

橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」講談社学術新書

★★★★★☆:久しぶりに唸った哲学系新書

いいですね。ユダヤ人としてのウィトゲンシュタイン、勝手キリスト者としてのウィトゲンシュタインという切り口を忘れていない。忘れちゃダメでしょ。でも、普通の哲学入門書ってその辺全くといっていいほど触れないんですね。脳天気というかナイーブというか。ユダヤ、キリスト教というキーワード抜きでヨーロッパの文系学問を研究してるとは言えないでしょうが。まあいいや。ぶつぶつ。

とにかく、平易な言葉でウィトゲンシュタインの中心的思想を表した、優れた入門書だと思います。

仏教の分析はイマイチな気がしたけれど、それはまた枝葉の話。

実は言語ゲームというのもあまりピンと来ませんでしたけどね。言語に対して異常に強い信頼感のある西欧人による、言語への懐疑なのか。うむむ。

2010年7月8日木曜日

名尾耕作「旧約聖書名言集」講談社学術新書

★★★☆☆☆

名言を押さえつつ、手っ取り早く聖書を概観したいな、と考える人がいれば、まさにこの本がオススメでしょう。

私は半分くらいで挫折しましまけど。奇跡、唯一神、人格神はどうしても飲み込めませんです。

竹田青嗣+西研「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」講談社現代新書

★☆☆☆☆☆:全く関心引かれず

残念な本でした。努力と意図は分かりましたが、全くピンと来なかった。だから何だ?って感じ。現代的意義も伝わらず。

自と他がどうしたこうした弁証法だ絶対精神だといわれても、こっちはもうそんなもの空(くう)だと思ってるから、ウソだよ、としか思えない。カントはギリギリの線で踏みとどまってるけど、ヘーゲルは仏教的にはもうダメだと思う。「仏教的に」断罪するのもどうかと思うけど。

キリスト教を背景とした主観客観スキーム、理性観、歴史観を踏まえて始めてヘーゲルがわかるんじゃないかなと愚考するわけですが、それほどの手間を掛けて理解する価値があるかも疑問。

2010年7月6日火曜日

差別について

「差別と日本人」角川one テーマ21を読んで、私は「差別をするのはそいつが弱いからだ。自分より下の人間がいてはじめてアイデンティティを確立できる、そんな弱い人間が差別をするんだ」とナイーブに思ったのです。

しかし、その直後、まったく違う文脈で、まったく違うテーマを扱った、まったく非政治的な本を読んでいて衝撃を受けました。すなわち「スケープゴートがいるから共同体がうまくいく」。ああ、そうだった。おれが浅はかだった。

確かに差別をするのは弱い人間だ。それは確かかもしれません。しかし、在日、部落差別を推し進める人がいたとして、そのモチベーションに「あいつらが差別されなければ、オレがやられる」、そういう恐怖があったとしたら、私は彼を責められるだろうか。

恐ろしいのは、世間なんだ。個として強いとか、弱いとか、そんなことは小さなことなんだ。愕然として私は思ったのであります。

生まれだけで人が差別される。本当にバカバカしいことだと思う。文章だけ読むと、小学生レベルだ。くだらない。

でも、そんな低レベルの差別をあくまで推し進める世間の怖さ。被差別部落、在日の人はことあるごとに壁にぶつかるのでしょう。「この仕事がもらえなかったら、幼い子供たちを抱えて路頭に迷う他はない」。そんなギリギリの状態で面接を受けたものの、その生まれによって不合格になった。婚約を破棄された。バカにされた。いじめられた。そんな人の苦しみが分からないからこそ「差別をするのは弱い人間だ」とうそぶくことができたのではないか。そんな私が他人の想像力の欠如を非難していたとは!!

前にも書きましたが、就職活動していたころ、某外資系企業の面接で親の職業を聞かれたことがありました。その時私は思った。オレの父親が有力者だったら、合格になっていたのかもしれない。ということは、オレがどういう人間であるか、そんなことは問題じゃないんだ、と。外資系とはいえ、運営しているのは普通の凡庸な日本人なのだ、と。その時の私は、まぎれもなく「差別のまなざし」の犠牲者でありました。人がどうあったか、どうあるのかではなく、どういう関係にあるのか、それだけを見て決めつけるという世間の冷たい目・・・。残念ながら誰しもが持っている冷たい「まなざし」。

・・・

少しは救いになるかもしれないのが・・・

最近、家族関係が希薄になってますね。特に東京。

大体結婚を申し込むにしても、相手の親と会えば話が終わる。

中小の企業であれば、余り細かいことは聞かれない。

団塊Jrが受けてきた「人間は平等だ」という薄っぺらい教育が、それでも芽を出し始めたのか。

「世間」共同体が崩れたことにも、少しはメリットがあったのか。

なんだかよく分かりませんが、この辺で。また腰を入れて考えたいと思います。


宗教は強い

最近仏教に目覚めたわけです。

きっかけは秋月龍珉さんの禅の本。ワリと理論的にアタマで考えるタイプだった私は、秋月さんによって仏教の入口に立ってみようと思うことができました。その背中を強烈に後押ししたのはひろさちやさんの本。

現在、私は仏教的な人間になっています。

仏教的な人間と何か。独断と偏見によると、それは仏教に触れて世界観が変わった人間である、と私は断言するものであります。

では、仏教とは何か。

それは、私にとっては、岩波でも読める「ブッダのことば」であったり、般若心経であったり、嘆異抄であったり、無門関であったり、正法眼蔵であったり、ひろさちやさんの本であったりします。

人が仏教に触れるとどうなるか。

世の中のウソが分かる。世の中のでたらめが分かる。

昔から、世の中どうもおかしいんじゃないかと思っていました。でも、はっきりとは言えなかった。周りに言っても表面的には同意するものの、突き詰めて考えてる奴なんて誰もいない。どうも「世の中がおかしい」というのは大声では語れない種類の言葉である。困ったなあと思って生きておった。

そうしたところ、仏教関連の本を何気に読んでいて分かったんですね。やっぱり世の中おかしかったんだ!と。

たとえば金。金が大事だと皆が言う。そりゃあ大事だけど、それほど大事かね。家族のためには金が大事だと言ってお父さんは社畜になる。金のために社畜になるお父さんを見て、なるほど金は家庭や自分(お父さん)の娘よりも大事なんだ。自分の健康も、時間も、家庭も犠牲にしてまで得る価値がある。それが金。だったら金は大事なものに違いない。そう思って娘が売春をして金を稼ぐ。お父さんがあんなに苦しんで金を稼いでいる。だったら私も苦しんで金を稼いでどこが悪い。体を売って何が悪い。息子は「おれも社畜になるのか。なりたくない」と将来に絶望して引きこもりになる。家庭が崩壊する。金が大事だといって社員を働かせ、社員の家庭を破壊し、契約社員を都合よく使い、一億稼ぐ経営者がいる。しかも、その経営者は別の理由で苦しんでいる。金があるからといってちっとも幸せじゃない。あるいは貧困に順応させられる子供たちがいる。彼彼女たちには何の責任もないのに、自転車も買ってもらえず、おやつすら満足に食べられない。

世の中を見れば、批判する人間もいるしこれでいいんだと許容する人間もいる。どうにも歯切れが悪い。評論家、政治家、適当なことばかり言っている。

こと金に関しては「金なんか大事じゃねえだろう」と叱れる人間がいない。だって人間だもの。

しかし、これが仏教の方から見てみると実にスッキリ。「金なんかどうでもいいだろう。全部寄付しろ。そしてお前の足元を見ろ。今、ほら。その場所がお前の極楽なんじゃ」と。あ、そうだよね、と思うわけです。いくら「金が大事」「いや大事じゃない」と頭の中で仮想討論やってたって、ムダなわけです。毒矢が刺さっているのに抜くこともせず、その毒矢は誰が打ったんだろう、何の毒なんだろいう、と悶々としていれば、そのうち空しく死んでしまうだろう、と。とにかく抜け、と。とにかく金なんかありがたがるのをよしちまえ、と。まことに明快。スッキリ。

これが、仏教の力(の一例)だ、と私は思います。

そんなの思考停止じゃないの?

止めていい思考と、止めるべきではない思考があるとおもうのです。

金という毒矢が心にささっていて、その毒矢が娘を売春に駆り立てる、お父さんを社畜に縛り付ける、そんなことがあるとしたら、まずは何も考えずに抜くに限る。そう思うのです。

私は。


なにか怪しいと思ったら

駅前でみんなの党の候補が「うちは個人献金で全部やってる」とかのたもうていました。んなアホな。信じられんよ。そう思ってWeb検索してみました。

見た記事の例)
公約どうした? みんなの党 渡辺代表/企業団体献金5億円/公共企業じゅちゅうきぎょうから9300万円、天下り先企業からも
みんなの党・渡辺代表に企業献金5億円

こっちの方がもっともらしいな、と感心。いやあ、Webのおかげでずいぶん啓蒙されてます。

ひろさちや/青山俊薫「禅の知恵 『正法眼蔵随聞記』に学ぶ」すずき出版

★★★★★☆:青山さんがよい

青山さんは曹洞宗の尼僧さんなのですが驚いたのはその語り口。理論的で無理がなく、しかも情感豊かで暖かい。ひろさんに劣らぬ力があると見た。

内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書

★★★★☆☆:濃い。

ユダヤ人問題には興味はないのですが結構面白く読めました。筆力があります。内容は学術よりの論文ですが、文学チックというかズバリ村上春樹チックなリズムがあって読ませました。途中までは、文章は面白いけど、実は大したこと書いてない?などと失礼なことを思ったりもしましたが、最後はなかなか圧巻。快作です。

2010年7月5日月曜日

畑村洋太郎「決定学の法則」文春文庫

★★☆☆☆☆:ああすればこうなるの世界に生きている

単純な世界観だなあ、と思いました。機械の設計やってると世界は単純に見えるのかしらん。そんなにかんたんに行くかいな。まあでも、普通の人の考え方はこんなものだろうな。

ひろさちや「ひろさちやの『日蓮』を読む」佼成出版社

★☆☆☆☆☆:はてな?

何か薄かった。ひろさんは日蓮さんにはあまり思い入れがない模様。

2010年7月4日日曜日

そう。そんなに簡単じゃない(差別の問題)

「差別と日本人」を読了して、なるほどそうであるなあ、とわりと感心していたところに、本日別の本を読んでいて頭をガンと殴られたような気がしました。「スケープゴートがいるから共同体がうまくいく」。なんという恐ろしい符合か。別の本とは、左右部落在日一切関係ない。個と家族の病を対象にした対談。おそろしや。

とにかく、物事は単純ではない。確かにいじめられ役がいた方が上手くいく。そういうことはあるかもしれない。しかし、それ以前に「全体」の意識がなくちゃあダメだろう、と。共同体が上手くいっているのは、スケープゴートのおかけだ、そういう意識が必要だ、と。だったら、そういう罪悪感があればスケープゴートをいじめていいのか、という問題が残る。難しい、難しいのが娑婆の世界。火宅の世界。

哲学には他者問題っつうのがありまして

他者問題ってのがあるんですね。哲学には。

どういう問題かと言うと「自分ってのが存在してるのは分かる。でも、どうして他者が存在していることが分かるのか」それが他者問題。

それが哲学上の一つの大問題になっている。

  アホか?

    と思うでしょ。はい。あなたは正しい人です。

  哲学者ってのはいったい何やってるんだ。

    頭に来るでしょう。そう。あなたは正しい人です。

まあ、とりあえず哲学側の主張を聞いてみましょう。

中世あたりに行きます。デカルトさん。一生懸命考えて、究極の疑いえぬ真実に至った。

 「我思う。故に我あり」

それが出発点。疑いえぬ真実。

 - 実はキリスト教の魂が強烈に前提されているのですがね。なにが懐疑だ。キリスト教前提にしてるじゃねえか、と。ま、それはさておき。

しかし、なんでその事実が他人に理解できるの?他人に理解できることを期待して書いてるんじゃないの?どうしてそんな期待ができるの?「我思う、故に我あり」これを否定する人がいたら、どうすんの?ということがしばらく捨て置かれていた。数100年後。

フッサールの現象学が出てきます。なぜ人は確信するのか。そして、その確信のいくつかは、どうして普遍的に受け入れられるのか。で、意識というものの構造を一生懸命考える。

それでいろいろ意識について述べるわけです。それに対して疑問が出てくる。普遍的な意識の構造があると言ってるけど、それはどうして?なんで他人にそれがあると言えるわけ?他人がいるように見えるけど、どうして意識の構造が他人にあると言えるの?

  私も書いてて嫌になってきた。どうしてこんなアホなことにかかわっているのか、と

結局「個」を神格化してるんですな。人間は霊魂なんだ。神がお作りになった個々の霊魂だ。そういう前提に立っている。なんでいっぱい霊魂があるんだ。こうして暮らしているんだ。神様を持ち出せば片付く(ライプニッツのモナドロジー)。でも哲学はあからさまに神を持ち出すわけにはいかない。だから考える。どうして他者がいると分かるのか。説明しなければならない。

「個」などないんだよ。般若心経で言えば、不生不滅だ。あるのは全体だけだ。確かに個は生まれ、滅する。しかし、生命そのものは生まれることもなく、滅することもない。

そう思えば解決する。

みんな同じなんだ。

犬だって、魚だって、背骨があって、肺があって、心臓があって、肝臓があるんだ。

犬だって、魚だって、背骨を打ち振ってのたうちまわっていれば、苦しいんだと分かる。同じ生き物なら、無条件でわかる。

みんな同じなんだ。

とりわけ「他者」を立てる思考が、間違ってるんだ。

他者が問題となりえる西洋思想は、どこか根本的に間違ってるんじゃないか。相対化されねばならないんじゃないか。とそんなことを思うわけです。

しかも、この思考は知らず知らず日本人の思考に食い込んで来ている。無自覚だとヤバいんじゃないかとも思います。自己責任だとか役員が高額報酬貰って平然としているとか、どうも西洋的な人間観に毒されて不味いことになってるんじゃないか。そんな気がしてなりません。

「差別と日本人」角川oneテーマ21

★★★★★☆:淡々と読みたい。

在日・部落ってのはかなりホットな話題なのだなあ、ということを、この本を読んで図書館に返却してしまった後、Webで「そういえば出版社ってどこだっけ?」と調べつつ、口コミを見て思いました。

まさに毀誉褒貶。というかむしろ貶してる方が舌鋒鋭い?とくに辛淑玉さんが攻撃されてる感じ。

Webってのは、どうも嫌韓、差別増長、何かにつけバッシングの風潮が強いようですな。というのが私の印象。穏健派は情報発信しない。

まあ、それはともかく。

個人的には、麻生太郎、石原慎太郎の鼻もちならなさが理解できた。

そういえば、前に務めたことのある会社の女傀儡社長が、部下、ヒラ社員のことを「下々のもの」と言っていたなあ、と。そんな人間はいくらでもいる。おのれの肩書、墓場まで持って行け。人間、思いあがると醜いもんだ。その醜さは、矮小さに由来する。

年収、地位という空しい尺度をもとに、私はあいつよりも偉い。優れていると思い込み、そこに安心を求めるほかはない矮小さ。年収300万の人間よりもおれは偉い。なぜならおれの年収310万。いやいや、私は500万。いやいや、私は1000万。いやいや私は5000万。いやいや私は1億円。食えればいいじゃないか。食えない人間にお布施する方が、よほど偉いぜ。

個人的には、野中さん、辛さん、お二人に人として共感しました。辛さんは確かに被差別よりに強烈にバイアスがかかっている。人によっては辟易するかもしれない。でも、彼女の経験を聞けば「さもありなん」とうなずくばかり。野中さんはすさまじい人生を送ってこられた。自民党でのし上がった事実からしても、むべあるかな、と感心する次第。

共感と想像力の欠けた非難はすぐにそれと分かる。そんな非難を、私は信用しない。