2009年10月24日土曜日

ブレードランナー見た

最近映画づいていますが、薄型テレビを買ったら、Wowwowとかスターチャンネルとかがしばらく無料で見られたからです。これはありがたい。番組表をチェックして気になった映画を録画し、夜中に眺めています。

この間はブレードランナーをやっていたのでちゃっかり録画しました。劇場公開板ってやつです。実はこの映画、まだ見てなかったんです。昔からいつかは見たいな、と気になっていたので(20年近く前から)、録画したことでようやく義理が果たせたような気分になりました。

早速鑑賞。いやあ、ハリソン・フォード若いよ。1982年前公開の映画だもんな。内容。変態的世界観がすばらしい。東洋と西洋の猥雑さをごちゃ混ぜにして、かつ世紀末後テイストを含ませた、みたいな。よくあんな世界つくったなあ。ストーリー自体は良くできたSFって感じですが、とにかく語り方と世界観がお見事です。こりゃあ傑作です。超々B級。何か未来世紀ブラジルをまた見たくなった。スタッフロールを見てると、原作はフィリップ・K・ディックとのこと。さもありなんとなぜか納得。

映画を見ると異世界に行けるのが楽しいですね。現実をしばらく忘れることができます。それを逃避と呼んでも構いませんけど。まあ、とにかく、映画万歳ということで。

2009年10月22日木曜日

郵政見直し賛成

はい。私は賛成です。かんぽの宿もどうにも怪しかったし、西川氏が間違ったことはしてないと言い張る様子も気にいらない。サラリーマンやってると、ネガティブ倫理観が身につくんですよね。悪いことはしていない。間違ったことはしていない。じゃあ長期的に見て、公平に見て正しいことをしたんか、と。かつて国民の財産であったところのかんぽの宿を、宮内の息のかかった企業に安く売って、それでもあなたは胸を張れるのか。現場の人間が絞られ、金持ちがますます豊かになり、コネやら人脈がものを言うのが民営化なら、そんなものはいらん。

頭を冷やします。

郵政見直しは、小泉改革路線の批判的見直しが必要だと考える私にとっては、必須の対応です。小泉改革路線は修正されなきゃいけない。だいたい郵政改革でおいしい思いをするのは一般庶民じゃねーじゃん。企業、超金持ち、何より外資系金融機関じゃないのか。郵政改革で景気回復などという小泉のプロパガンダが破綻した以上、続ける意味なし。

ああ。また感情的になっちまった。

しかし最近亀井さんの動きがいいですね。昔角栄さんの娘さんに軍人などと揶揄されてたけど、いやいや軍人どころじゃない、なかなかやるじゃないですか。

2009年10月21日水曜日

「僕は人生を巻き戻す」 テリー・マーフィー 文藝春秋

★★★★☆☆:強迫神経症の理解が進む

極めて強度の強迫神経症と現在進行系で闘いつつ、徐々に乗り越えつつある人の感動的なルポです。

強迫神経症とは何か。ええと、もう何かをやらざるを得ない人というか、具体的には一日中手を洗ってないと不潔な気がして落ち着かないとか、外出時、家の鍵を掛けたかどうか不安になって三回も四回も確かめに帰ってしまうとか、そんな性癖はだれでも大なり小なりあるでしょうが(ない?)、その極端なやつです。

かくいう私も近いものがあって、例えば家の鍵を掛けたかどうか、ガスがつけっぱなしになってないかどうか、二度ほど確認してしまうタイプです。これだけ聞くと、何だ、ただ慎重なだけじゃん。神経症とはいえない。と思われるでしょうし、まあそれには同意しますが、その時のどうにも確認しなければ気が済まない感、確認しないと安心できない感は、我ながらおかしいんちゃうか、と思うほど激しい理不尽な感覚なのです。私の場合は日常生活に全く差し支えのないレベルですが(恐らくは神経症ですらない)、強迫神経症の人の気持ちは分からないでもない。

しかし、この本の主人公の病状は並外れてまして、具体的なあたりは是非この本を読んでいただきたいのですが、すごいことになっています。そして、そこから回復して行く様子もまた感動的です。

こういう本を読むと、人が当たり前に生きているというのは、実はけっこう大変な偉業でなのではないか、そんな気がします。もちろん、何の屈託もなく自然にガツガツ生きられる人はいて、そんな人は確かにかなりのアドバンテージを持っていることになります。でも、世の中には簡単なことすらうまくできない人がいる、しかもそれはその人の自己責任でそうなったわけではない。その事実が理解できない限り、当たり前に生きている人も自分の人生や環境のありがたみに気がつくことはないでしょう。そして、自分の人生のかけがえのなさに気がつかなければ、傲慢で、自らの不幸を嘆くばかりで、でも自分より劣った人をバカにするような、浅はかな人生しか生きられないような気がします。

何だか自分でも何を言ってるのかよく分からなくなってきたのでこの辺にします。

ええと、少し補足です。どうやらこの本はプロのルポライターが書いたようで、それに由来するであろう美点と欠点があります。

まず美点について。読ませる。迫力がある。わかりやすい。

次に欠点。説明が分かりやすい反面、図式的すぎる。強迫神経症を簡単に解釈しすぎている気がします。それから叙述が客観的に過ぎる。専門外のことだから、客観的にならざるをえない模様。客観性とはそれ自体限定されたイデオロギーに他なりません。また、うっかりすると類型的なサクセスストーリーに見える。ゆえに若干興ざめなところがあります。

まあ、そんなことはさておいて、この本が感動的な傑作であることには変わりありません。読んでよかった。

2009年10月20日火曜日

In to the wild見た

実にいい映画でした。普段は民放の何とか洋画劇場で、はっはっは。くだらねえ。とか、ふーん。そこそこいい出来じゃん。とか、所詮はやたらと金をかけた消耗のエンターテインメントじゃねえか、といったスタンスでわりと気楽に映画をみるのですが、今回は良質な映画をしみじみと堪能しました。こういう映画をね、銀座とか渋谷のミニシアターで、じっくり見たいんだけどね。まあ、それはもう少し子供が大きくなって、家にいると疎まれるようになってからのお楽しみにしておこうか。

映画の内容ですが、ザックリ書くと、物質文明に絶望し、家族関係にもトラウマを持つ主人公が、大学卒業後に家族に内緒で放浪の旅に出て、いろんな出会いをしたり、いろんな経験をする、というロードムービー、といったところでしょうか。

粗筋は地味なのですが、自然描写と人物描写がいちいち素晴らしくて、二時間以上の間まったく飽きることがありませんでした。

アラスカ、グランドキャニオン、砂漠の荒々しくも崇高な光景。すれ違う人々それぞれの人生とのふれあい。そして主人公の成長。

若さ故のシンプルでまっすぐな人生と、すれ違う人々の、酸いも甘いもかみ分けたような、苦しみを通して矛盾や怒りを受け入れてきたような人生が、衝突することなく交差し、温かい交流が生まれるようすはとても感動的です。ラストにも圧倒されました。

家族ってなんだろう。生きるってどういうことだろう。

古くさいような、青臭いような問いですが、この映画を見た余韻が、そんな形の問いになって、心の中でゆっくりと響いているような気がしました。

ネット実名制論

今更な議論なんですが、折角なので考えてみました。きっかけはNIKKEIの記事です。と思ってリンク先を探してみたら記事が消えてましたよ。ありゃりゃ。朝読んだのですが、午後には消えてましたね。評論家が元記事を取り下げたか、あるいは別の理由からか。まあいいや。

無責任な議論や誹謗中傷を減らすためには、ネットを実名制にしたらいいのではないか、とする著名経済評論家に対して、ネット歴が長そうなペンネームの記者の人(?)が反論している記事でした。

結論から先に言えば、私は以下の三つの理由からネットの実名制には反対です。

一。実名にしたところで無責任な議論や誹謗中傷はなくならないだろう。多少は減るかもしれないけれど。

二。発信者としては実名で記事を書くなど恥ずかしい。

三。ネットで情報を発信者するのに実名を求めるような社会は、成熟してない気がする。

もう一つ言えば、私もシステム構築係の仕事をしているのでネットの匿名性など幻想に過ぎない、ということが分かっている。ログ追えば誰が書いたか一発で分かるはず。まあ、官憲を刺激しないようなレベルの影響力・内容であれば、事実上匿名ですけどね。

しかし、いったいどのような人がネット実名制を支持するのか。多分ネットに慣れてない人だと思うな。あるいはネットという柔軟で有機的な存在を把握しあぐねている人。よく分からないからはっきりさせたい。わけの分からないことを言うヤツを、表に引きずり出したい。だから実名制にすべきだ、と。

でも、激越でえぐるような中傷をする人間の名前が分かったところで、何になるだろう?復讐する?いや、そんなヤツと刺し違えるのもバカバカしい。だいたい、相手は高校生かもしれないしね。いい大人かもしれないけど。二、三日は気分が悪いかもしれないけど、我慢してやり過ごすのが一番じゃないですかね。

村上春樹の若い頃に書いた軽いエッセイに、悪い批評というのは糞便の詰まった肥溜めに似ている、という身も蓋もない比喩が書いてあった記憶があります。とにかく鼻をつまんで逃げるに限る、と。あの人もずいぶんひどい目にあったに違いない。村上春樹でさえそうなのだから、私のような一般人は、ああ、この程度の悪口でよかったなあ、と胸をなでおろすくらいでちょうど良いかもしれません。だいたい悪口すら言って貰えない人もいるんだし。いいのか悪いのかはわかりませんけどね。それに実名でガンガン悪口言われまくったら、それはそれでつらいでしょう。やっぱり匿名がいいんじゃないかしらん。

スパイダーマン見た

間違いなくB級だろう、という私の勝手な予想は裏切られました。ちゃんとしたA級映画でした。悪役のキャラは圧倒的なB級クオリティだったんですが、演技力の勝利でしょうか、本格派的な凄みがありました。全体にアメリカンな中二病テイストは感じられましたが、まあアメコミが原作なのでそこはしょうがないところでしょう。むしろスパイダーマンをA級に引き上げた力量は賞賛に値します。もう少しB級の方が好みなんですけどね。

あ、ちなみにA級とB級の違いは何か、というと、要するに駄作がB級で、よくできた作品がA級という区分です。はい。

エイリアンVSプレデター見た

見ちゃいましたよ。期待に違わぬB級映画でした。途中、いつ見るのをやめても決して後悔しないだろうという作品。セリフもB級なら演技もB級、ストーリーもB級。何をとってもB級ばかり。B級なので納得、見てスッキリした、という作品です。まあタイトルからしてB級ですからね。うん。これでA級の作品だったらかえって困るというものです。

欲をいうならちょっとストーリーが凝りすぎてたかな。エイリアンとプレデターが戦う理由。そのシナリオを頑張って練りすぎた。んなものいらなかったんじゃないかな。単にガンガン戦えばよかったんじゃないすかね。後はもう少し変態的な映画がの方がよかったかな。プレデターが歌うとか。そういう無茶なノリが欲しかったかも。まあ、いまさら改善もなにもないんですけどね。

しかしこの映画を見て、初代エイリアンもプレデターもそれなりの傑作だったような気がするなあ、と思いました。ほとんど覚えてないんですけどね。エイリアンなんかはA級に近い映画じゃなかったかしらん。プレデターはB級だけど、超のつく方のB級。シュワちゃんの圧倒的な説得力ですべでをねじ込んでるたぐいの映画。この二つの映画がフュージョンしたら駄作になったというのはありがちな話ですね。まあ、この手の映画、私はかなり好きです。

2009年10月19日月曜日

なぜ私はTwitterをしないのか

別に私がTwitterをしようがしまいが世の中の大勢には何の影響も与えないわけですが、考えがまとまってきたので書いてみます。主に四つの理由があります。

一。私のつぶやきが世の中に影響を与える可能性が極めて低いから。そんなこといったらこのブログの影響だって全く大したことないわけですけど、少なくとも私のブログを読んでいる方がわずかながらいらっしゃるらしい。とすれば、これを読んで、うん。まあその通りだなあとか、いやいやそれは変だよとか、そんな風に思われることもあるに違いない。その可能性があるだけで十分ブログを書くモチベーションになります。他方でTwitterではどうか。私のつぶやきにどれほどインパクトがあるか。そんなものありゃしません。あきらかに。だからTwitterに投稿するモチベーションも低いと言わざるをえません。

二。つぶやきという表現、具体的には140文字という制約の投稿形式に、魅力が感じられない。140文字で何かを伝えるというのはやはりしんどい。わざわざそんな制約の下に情報発信したくありません。

三。読む立場としても他人のつぶやきにあまり魅力を感じられない。Twitterの価値はリアルタイム性にあるようですが、私は個人的にあまりWebにリアルタイム性を期待してません。

四。その他多勢に埋没するだけという予感。

80対20の法則という便宜的な解釈があります。世界の富の80%は20%の人が独占している、とか企業の売上の80%は20%の人が稼いでいる、といった感じで使われるのですが、その正しさはともかく、80と20という数字を使われると何となく説得力があるという不思議な法則です。この法則をTwitterに当てはめてみたらどうなるでしょう。20%のユーザーが全体の80%のフォローワを獲得する?いやいや、それどころではない気がしますね。根拠はありませんが。ひょっとしたら0.01%のユーザーが99.99%のフォローワを独占してたりして。とにかく、どこそこの有名人がTwitterを始めただのという話はよく聞きますが、無名氏によるこんな優れた投稿があったとか、無名氏のつぶやきが非常な共感を得て評判だとか、そういう話はあまり聞きません。要するに、Twitterというのはすでにコンテンツを持っているユーザーや、ネームバリューのあるユーザーが発信するためのメディアじゃないか、と思います。優れた俳句などがバンバン投稿されるとまた違うかもしれませんけど。

私ごときがつぶやいたところでねえ。それに価値があるとは全く思えませんので。

本当はこんな記事を書く前に、実際に使ってみるべきなんですけどね。でも試しに使う気にもなりませんでした。だってオレのつぶやきだよ?そんなもの投稿してどうするよ。

以上。

2009年10月18日日曜日

豚汁、茶碗蒸し、カジキマグロオーブン焼き

運動会のお父さん出演競技(綱引き)で筋肉痛です。

まず豚汁。これも失敗が少ないので頭ボーッとしたまま作れる料理です。

はい完成。八丁味噌で隠し味。でも、何の変哲もない豚汁です。

銀杏があったので茶碗蒸し。

わりと乱暴に作りましたが、普通に茶碗蒸しでした。美味かった。

それからもう一品。カジキマグロのオーブン焼き。サンマのオーブン焼きで味をしめた調理方法です。オリーブオイル使用。手軽だしそこそこ美味い。結構いいですよ。

PMだとかSEだとかPGだとか

所詮役割に過ぎないわけですよ。

役割の前に仕事があり、仕事の先に目的があるはず。とすれば目的から仕事を定義出来るはず。というか、本来は目的から仕事を定義すべきです。役割からではなく。

今回はシステム開発という狭い世界の話になりそうです。別の業界の人には伝わらない予感。

ええと気を取り直して先に進みます。つまり、PMがコードを書いたっていいし、PGが進捗資料を作ったっていい。先にあるべきは仕事であって、役割ではない。

何が言いたいか。悔しかったらコーディングしてみやがれ。どうだ。なんてことを言いたいのではありません。もちろんPMがコードを書くのは、現場の作業を理解するためにはいいことだとは思います。でも恐らくは必須ではない。

仕事の目的と人の役割が合致しているプロジェクトは幸福だと思います。しかし、必ずしも全てのプロジェクトが幸福なわけではない。別にむつかしいことを言っているわけではありません。例えばPMOという役割があります。PMのためにEXCELの資料を作ったり、メタ資料(コーディングについての資料やテストについての資料。何とか方針とか。大規模プロジェクトに必要な煙幕)を作ったりする、要はPMのパシリです。ハッキリ言って10人未満のプロジェクトには無用の存在。ところが、あるメンバがプロジェクトに入って、私はPMOだから、と自分の仕事を勝手に役割から定義してしまうという、もうどうしようもないことが現実化にあるわけです。10人未満の現場ではPMO的仕事なんてものすごい優先度が低いか恐らくは必要とすらされていない。そんな仕事やられても困る。でも私はPMO。意味のない仕事をする使命がある。勘弁してくださいよ。本当に。

それから、PMがいるがためにほとんど不要な仕事が発生することもありますね。つまりPMの思いつきってやつです。別にお客さんは求めてなかった。その仕事をしなくても済んだ可能性はあった。でもPMが思いついちゃったからやらざるを得ない。「なんかこんな感じのものを作らなくちゃダメじゃないのか」という曖昧なPMの思いつきに苦しむ現場。ホントご苦労さまです。

要はいいものを皆で作るためには、自分は何をしなければならないのか。役割だとか一般論はさておいて、そこを真摯に考える力と、遂行するスキルが必要だと私は思うのでありました。形式とか役割とか一般論から入るのではなく、今プロジェクトが必要としているのは何なのか。その目極めができないとダメじゃん。

しかし考えてみたら下流と上流という言葉ってプログラマをバカにした定義だよな。

以上。