2010年6月5日土曜日

運動会の弁当作り(チキンカツサンド、ツナキュウリサンド、ハムタマゴキュウリサンド、アスパラ(妻)、プチトマト(妻)、ベーコンポテト炒め(妻))

頑張って運動会の弁当作りをしました。

普通なら目覚ましが鳴ってから(通常AM6:00)5分で活動モードに入れるのですが、最近は20分くらいかかるようになりました。すなわち朝起きるのがツライ。起きてからしばらくエンジンがかからない。ここ2,3カ月続いた鬱と関連があるかと言えば、鬱の方は間違いなく脱却中(未だに脱却中。短期間では回復しません)なので必ずしもシンクロしてない。精神の状態と体調は、単純な因果関係では結ばれないようで。

それがわかっていたので、昨夜は22時前に就寝しました。でも、ダメでしたね。もう目が覚めた途端に疲れてた。私にしては珍しく、10分ほど起き上がれなかった。二度寝しなかったのは褒められていいかもしれぬ。しかしここ数年で無かったほど起きるのがつらかった。学生時代はメチャクチャ目覚めがさわやかですがすがしかったのに。年のせいだな。やれやれ。(後記:冷えが理由と判明。レッグウォーマーなどで暖かくして寝るようにしたら改善)

仕事は割と順調でハードワークとは程遠い。仕事も私生活も精神的なストレスはさほど増えておらず、これはもう何かの周期にぶち当たったとしか言えません。

まあ、いいや。

にも関わらず頑張りましたよ。浮かれる子供たちを怒鳴りつけるようなこともしなかった。これは自分を褒めたい。

子育ても10年近くやってくるとようやく落ち着いてくるということか。子供が8歳なら私がパパになってのは8年目。子供の年齢=父の年齢です。子供とともに親も育つ。子供が幼稚なら、親も幼稚なのだ。当たり前のことだし、昔も頭では分かっていたけれど、ようやく実感として分かってきた。5年前の自分は、子供に対して頭でっかちでピリピリしていた。つまり、幼稚な親だったということ。今の自分は父親として小学生レベルということ。これは真摯に受け止めたい。

さて料理。マンネリ、マンネリ。マンネリで悪いか。今、此処のマンネリ、反復にだって生がある。

まずは鶏胸肉を麺棒で叩きます。観音開きが面倒くさいから。でも叩くだけだとあんまり薄くならない。

小麦粉はたいて卵液漬けてパン粉をギュッと付けて、あ。肉に塩コショウするの忘れた。ま、いっか。

揚げ焼きします。

火を通しすぎると硬くなるので要注意。かといって生の鶏肉は避けたい。念のためにカットして火が通ったかを確認。

油を軽く取って生協のソースとケチャップをドップリ。

これは妻謹製のコンビーフポテト炒め。

プチトマトとアスパラ大量に。

カツが冷めたらサンドイッチに。

チキンカツの余りと再びコンビーフポテト。

運動会で、家族で食べる昼食はいいです。昔を思い出す。

帰ってから疲れて昼寝しちゃったけどね。


2010年6月3日木曜日

じわじわと鬱を脱しつつ

前回、鬱が始まると人を見て不愉快になるようだ、という旨のことを書きました。

最近、鬱を脱却しつつあるのですが、しかし人を見て不愉快になるのはさほど変わらぬ。でも、鬱の時と明らかに違うのは、不愉快になってもそれが怒りとか鬱屈した感情に直結しないこと。軽い嫌味は言うものの、重くはならない。周りの雰囲気も柔らかくなる。これはホント。鬱のときは、なるべく私も押し殺してはいましたが、周りも緊張していたというか、微妙に腫れものに触るような雰囲気があった(まあこれはこれで有難いことかも知れぬ)。鬱から抜け出てつつある最近は、周りの雰囲気も緩んでいる気配がある。やはり対人関係というのは、ライプニッツの言う窓のないモナドの予定調和というよりも、主客未分の因果・縁起の世界なのではないだろうか、とそんなことを考えます。

宗教に惹かれる今日この頃

どうもこれまで宗教とは縁遠い生活を送ってきたのですが、最近仏教に目覚め始めているようです。

しっくり来るんですよね。年を取ったからか。力が抜けてきたか。

今まで受けてきた教育やら、知らず知らず自分が根拠としていた、無意識レベルの思想(現実)は、年を取るにつれ、経験が増えるにつれて、徐々に相対化されてくる。すると絶対的なものがなくなって「空」とか「無」になってくる。そんな状態でとにかく生きて行こうかと思った時、仏教は非常にしっくりくる。キリスト教とかイスラム教は空を埋めようとする宗教のような気がする。とすれば、そんなのウソだろうと思う。

昔、宗教に対して持っていた抵抗「所詮弱者がすがるものだ」「現実逃避だ」「道徳の押しつけだ」からも離れてきた。というか、ホンモノの宗教が少しずつ分かってきた、といえば生意気か。

まあ、まだまだ私は強者であって(勝ち組という意味ではない)、弱者を引き付ける宗教にはまだ抵抗があり、絶対他力の心境までは至れぬ、というところでいったん終了。

瀬戸内寂聴・ひろさちや対談集「仏教・エロスと救い」主婦の友社

★★★★☆☆:寂聴さんは生々しい

女性の観点から見た仏教が興味深いです。ロジックじゃない、センスだ、情念だという迫力があります。不倫だとか浮気だとかいうテーマが絡むところも面白い。寂聴さんならではでしょうか。

面白かったのは、ひろさちやさんは、頑張ったらあかん、努力したらあかん、という逆説的なことを言うわけです。私も、頭では分かっても、そうはいっても日々がんばらなしゃあないし、子供にだって少しは頑張ってもらわなあかんでしょう、と思って、ひろさん、それは無理ではなかろうか、と思っておりました。

寂聴さんも、私も頑張ったからここまでこれたし、好きなことをとにかく頑張った、だからやっぱり頑張るべきではないか、という旨の発言をしたのですが、ここで私は忽然と分かった気がした。寂聴さんには悪いけど、好きなことをやってきた人生の成功者が、他人に、頑張れ、と言ってはならんのだ、と。それはもう傲慢、残酷以外の何者でもない。

頑張ってもどうにもならないことがある。どんなに努力しても成果がでないことがある。才能が、人脈が、コネがない人間がいくら頑張っても、ほとんどはダメなんだ。

でも、だからこそ、やはり少しは頑張るべきだと私は思う。何故か。うーん。すっかり悟って穏やかに生きる人にも劣らず、人生にあがき、もがいて、苦しみながら祈る人間は尊いからかなあ、とそんなことを考えました。

2010年6月1日火曜日

これは勘弁してほしい~野村HDの役員報酬高騰

このご時世に何をやっているのか、と。

いや、むしろ株/証券業界の汚さ、金と欲にまみれた側面をさらけ出したのか。

日本人としての矜持がないのか。

ハードワークで金を稼いでどうする。どちらも空しいことに気がつかないのか。

ぶつぶつ。

中村芳子/著 鹿嶋春平太/監修「3日でわかる聖書」ダイヤモンド社

★★★★☆☆:面白いことは面白い

最初は面白い。でもだんだん重苦しい気持ちになりました。キリスト教の聖書解釈。これはまさにニーチェの指摘したルサンチマンの集大成じゃなかろうか。

日本人のカソリック教徒が、原爆で我が子を失いながら神を讃えたらしいが笑えないブラックジョークじゃないか。※

ビジネスと絡めてあるのも薄ら寒い感じです。

多分、聖書それ自体の問題ではなく、解釈する私の問題なのですけど。

キリスト教に対する偏見がなかなか抜けません。

※これだけではよく分からないので補足。敵を恨まない、復讐しない、不幸を受け入れる、というのは正しいと思う。でも原爆を落としたのはキリスト教の国だし、敬虔なキリスト教徒(ブッシュJr)が何をしたかを思うと、どうもなんだかなあと思えて仕方がない。(だとすればキリスト教自体というより、キリスト教徒に偏見があるのかも)

「ひろさちやの般若心経88講」新潮社

★★★★★★:いやはや凄い才能

これほど平易な言葉で、これほど深く般若心経を語ることが出来るとは。

最高の解説書じゃなかろうかと思います。