【この「プロジェクトの人間学」投稿シリーズは、昔私が出版社に持ち込んだ原稿からコピーしたものです。某出版社でページ数を増やすことを条件に書籍化の話を頂いたのですが、いろいろあって何となく立ち消えになってしまいました。しばらく音沙汰もないので、少しずつ投稿して行こうと思います。】
何かを二つに分けて理解しようとする。例えば人という存在を意識(脳)と自然、あるいは脳と身体に分ける。これを二元論という。
二元論は便利である。なぜなら分けることは判断することであり、また理解することだから。分ける、とは分類する、つまり差異化することである。赤を赤と薄い赤に分ける。そして薄い赤をピンクと名づける。これによってピンクという質を理解する。これが意識が「理解」する方法である。すなわち意識が世界を理解する機能は二元的に働く。意識は対象を分けることで世界を再構築している。だから二元論は分かりやすい。デカルトも精神の世界と物質の世界を分けて考えてキリスト教と物理科学を共存させることができた。二元論は実に使える理論なのである。
プロジェクトを「意識と自然」という枠組みで把握してみよう。プロジェクトは人間が運営する。そして徹底的にリスクや偶然が嫌われる。その意味ではプロジェクトは極めて「意識的」なものである。すなわち事象は理解され、コントロールされなければならない。それが顕著なのがいわゆる「マネジメント」「えらい人たち」レイヤである。ではプロジェクトの現場レイヤはどうか。無論現場も同じ。事象や進捗のコントロールが志向され、リスクは排除しようとする。しかし2つのレイヤには決定的に違うポイントがある。それはありていに言ってしまえば無力感である。現場レイヤではしばしばコントロール不能状態になる。どうしようもない、しようがない、しかたない、そうとしか言いようのない事態が起きる。
属人的理由から発生するミス。やるべきことはやっていたにも関わらず発生する手戻り作業。起きることは分かっていた。しかし何も手を打てなかった無力感。やるべきことはやっていたにも関わらず発生してしまったという無力感。
無力感の多寡こそが現場とマネジメント層を分ける一つの指標に違いない。なぜならマネジメント層に伝わる情報にはほとんど無力感などは含まれてはいないだろうから。そしてマネジメントの仕事はもっぱら解釈であって現実との衝突ではないから。
この無力感の源はどのプロジェクトでも発生する障害、作業ミス、トラブル、コミュニケーション不全、予定外作業などなどである。意識にとっては受け入れがたいこれらの事象をなんと呼ぶか。この本ではこれを自然と呼ぶことにする。つまり自ずから然あるのがトラブルである。放っておけばそう成る。だから自然である。人が集まって何か働く。すると秩序なり製品が生まれ、それと同時に無秩序と廃棄物が生まれる。これをエントロピーが増大すると表現してもよい。要するにトラブルは自然にかつ必然的に発生する。
土地を放っておけば雑草が生える。それが気に入らないなら方法が2つある。一つはアスファルトで覆ってしまうこと。もう一つは手入れをすること。残念ながらプロジェクトをアスファルトで覆うことはできない。だから手入れをするしかない。しかし一般にはトラブル対応としてアスファルトで覆うようなラディカルな対応を行っていることが多い。行き過ぎたコントロールや数値化志向がそれである。ものには限度がある。行過ぎた対応はプロジェクトを破壊するか、強烈なオーバーヘッドを生むだけである。ある種のトラブルと共存するという発想も、必要なのではないか。冗談じゃない、失敗は許されない、そう言いたい気持ちも分かる。全ての失敗を許し、共存するとは言っていない。許されない失敗はある。その区別が重要である。あらゆる失敗が許されない、と考える人はここから先は読まないほうがよい。
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