2008年8月29日金曜日

プロジェクトの「ほんとう」を把握する(プロジェクトの人間学)

数字は単なる現象であり、プロジェクトの「ほんとう」ではない。それがしばしば「ほんとう」と解釈される。そして数字というむやみにリアリティがあるクオリアが「ほんとう」となってしまい、現実を数字から把握しようとする「あべこべ」が起こる。プロジェクト定量化の試みは「あべこべ」に他ならないのである。数字は現れの一つであり、本質ではない。現れとして重要ではあるが、数字を時系列でトラッキングしても「結果」としてのトラブルしか把握できない。「結果」として把握されたトラブルは、もはや「原因」を後付けする他はなく、既に起こってしまったものとしてトラブルはすでに「仕方がない」ものである。

【数字を元にしたプロジェクト分析での認識の流れ(時系列)】
数字 → トラブル(事後) → 原因(事後) → 後付けのアクション(事後)

以下があるべき認識の流れである。

【あるべき認識の流れ】
(事前)トラブルの匂い → (事前)思い切ったアクション → (事前)トラブルの回避

あるべき流れには数字の入る余地がないことがよく分かるだろう。数字は気づく発端に過ぎない。しかも「過去」に気が付くだけである。また、意識は「数字に捕らわれ易い」という性質を持っているが故に非常にミスリードである。プロジェクトの「ほんとう」を把握するためには却って邪魔になりかねない。数字で構成された世界観が人間を圧迫する。これは物理学的世界観が現代の人間を圧迫しているのと同じ構造を持っている。

物理学的世界観で生きる人間が息苦しさを感じる。それは物理学的な世界は法則と計測でがんじがらめの世界だからである。数字と因果関係は実のところ単なるクオリアに過ぎない。しかしそれを無理やり自然に適用し、石油の力を借りて、脳の中の構造と因果関係を外に出して構造にしてしまった。それが都市であり、意識の作った世界である。ところが意識の作った世界は実は生き難い社会である。まず自然が破壊された結果、意識が素朴に把握できる「原因と結果」を超えた影響(例えば温暖化現象)を地球環境に与えている。今となっては「二酸化炭の排出が温暖化の原因である」という有力な仮説が成立しているが、これも「事後的な」原因分析に過ぎないことがお分かりだろう。また意識が世界をゆがめたおかげで子供たちにとって非常に息詰まる社会になってしまった。子供はまだ自然に近い存在だからである。

閑話休題

プロジェクト管理がプロジェクトのオーバーヘッドを増し、場合によってはプロジェクトを破綻させるのも同じ構造を持っている。数字が先にあり「こうあらねばならない!」とマネジメント層や顧客が叫ぶ。しかし実際には決してそうならないのだ。ただトラブルの隠蔽やプロジェクトの破綻が引き起こされるだけである。

プロジェクトの「ほんとう」を把握するのは事実上不可能に近い。たくさんの人間がそれぞれ情報を抱えて自らのパースペクティブからプロジェクト観を構成している。どれが正しいとか正しくないとか、そういうことは言えない。もちろん全員が合意できるラインは存在する。だがそれは厳密な意味での客観的事実の羅列に過ぎない。それは数値化され誰も否定できない実在感を帯びる。だがその数字は先に述べた通りプロジェクトの「ほんとう」を示すものではない。

各人がそれぞれのプロジェクトの「ほんとう」を持っていて、どれが正しいかは分からない。では全ては相対的なのか。それは違う。現実のプロジェクトを見れば分かる。そこでは最終的に「正しい」(「ほんとう」と「正しい」を区別していることに注意)のは常に顧客でありマネジメント層なのだ。「最終的に」というのが重要である。最初から最後まで彼らが正しいならメンバーは不要であろう。プロジェクトで発生する事象や情報を取りまとめプロジェクト観を構成する。彼らが事実上プロジェクトの「正しい」「公式見解」を発表する。必ずしも「ほんとう」ではない。むしろ彼らは政治的に「正しい」ことを求めている。

しかしこの政治的な「正しさ」はプロジェクトを*事前に*コントロールするためには役に立たない。それはすでに発生してしまった事象についての解釈でしかないからである。起きたことをきれいに解釈し、原因を明らかにし、きれいにレポーティングする。これによって結果を「正しく」解釈し、今後につなげることはできる。だがまさにこの事象の発生をコントロールできるものではない。マネジメント層の「正しさ」は常に事後的である。

なぜマネジメントが常に「正しい」か。理由は2つある。一つは情報が集まるから。情報は力である。情報をもっともよく知り得た人間にもっとも正しい判断ができる。それから権力と正しさは表裏一体だからである。強力な認識が正しい。「正しさ」にはそういう側面がある。ニーチェは「認識とは力への意志である」と説いた。ニーチェを引き合いに出すまでもなく「強い人間が正しい」というのはサラリーマンには理解しやすいはずである。多少の反感はあるにせよ、誰が敢えて社長の言葉に歯向かうであろうか。

「正しさ」と「ほんとう」の違いは、前者が事後的であるのに対し、後者が生き生きとした現在を対象としている点にある。プロジェクトの「ほんとう」はメンバーが今まさに設計し、メールし、会議し、あるいは雑談している、都度その場にある。それらは今、この瞬間は計測不能である。計測可能なのは過去だけである。今現在の事象はただ質的なものとして感じられる。だからプロジェクトの「ほんとう」は眼、耳、鼻で感じるものなのである。現場慣れしたサブリーダーやメンバーは、文字通りトラブルが近づく足音を聞き、その臭いをかぐのである。

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