2008年10月1日水曜日

携帯小説

「あたし彼女」という携帯小説が評判になっています。

私もちょっと読んでみました、こりゃ凄いですね。ちょっとしんどくて読みとおすことはできなかったのですが、それにしても「すげえなあ。ここまで来たか」という感じです。

といってもさかしらにこの手の表現をあざ笑おうというつもりはありません。

ちょっと乱暴な連想ですが、俳句という表現形式もまたシンプルで奥深いものがあります。短い単語を連ねる文学表現は、日本語に案外マッチするのかもしれません。

それにしても考えさせられるのはケータイというインプット/アウトプットツールが生み出す形式です。何を言いたいかというと、メディアによって人の表現形式も異なってくることを、ケータイ小説は如実に示しているということです。

ケータイ小説は恐らく手書きでは生まれなかった表現形式でしょう。「いや*ケータイ*小説なんだから当たり前だろ」というツッコミは勘弁して下さい。そうではなく、ここまで短い文章を、感覚的な口語体で連ねる、という表現形式です。

つまり、極端を言えばツールやメディアが表現形式の制約となるのではなく、むしろ積極的に表現形式を生んでいるとも言える訳です。
あらかじめ型が決まっていて、その型をどう自分のものにするか、そこで表現の質が決まってくるように思います。

振り返ってみれば、昔から毛筆から鉛筆、万年筆、ボールペン、ワープロと表現ツールは変って来ています。特に手書きからワープロへの進化は、文学という表現形式に大きな影響を与えているに違いありません。(この雑文だってPCがなければ生まれなかったことでしょう。)

また連想が飛びますが、村上春樹の「風の歌を聴け」という短編小説があります。これもまた短い文章を連ねて表現された文学です。この小説が発表されたときも「こんなの文学じゃない」「あれならオレだって書ける」などと言った人もいたそうです。新しいものが出たからと言って、安易に批判してはいけない、ということでしょう。

しかし、ケータイ小説をチラっと読んで、やはり重厚で体系的なスゴイ小説を読んで見たいなと思う人も多いのではないでしょうか。ひょっとして「カラマーゾフの兄弟」の新訳が売れているのも、ケータイ文化への反動だったりして。

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