若いころはその波の間隔が短く、精神的な高揚期から停滞期が数日~数週間単位で入れ替わることもあり、これって躁鬱病なんじゃないかね、と自分ながら疑問に思ったこともありましたが、年を取るにつれてその間隔が広くなり、また波の高低も狭まってきたように思います。
今でもたまに憂鬱期がやってきますが、本当に頻度は少なくなりました。
といっても、今がまさにその憂鬱期なんですけどね。
なぜ、鬱状態が少なくなったか。それはやはり思春期だったがゆえに、若い頃は鬱状態になることが多かったんじゃないかね、と考えますね。では、年を取ったら鬱状態が少なくなった、これは何故か。生活が固定化してきたからのような気がします。すなわち仕事という日常。家庭という日常。大きな変化もなく、そこそこ心地いい。
仕事ではストレスもありますし、不愉快なこともありますが、そういうのがまた何らかの原動力になることもあって、一概に悪いとも言えない。本当に平和でストレスも全くないのが続くとすれば、早々にボケてしまうような気がします。まあ、それはそれでいいかもしれないですけどね。
で、今はまさに鬱状態。こういう時は哲学書に惹かれます。今回はキルケゴールの「死に至る病」をふと思い出して、読んでみたら気分的にどんぴしゃ。
絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。 絶望して、自己を持っていることを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。
人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、・・・
絶望を突き詰めるとそこには救いがあります。キルケゴールはキリスト者でした。でも、不可知論者/無思想者の私にだって、救いはあるように思います。経験的に言って。
土日はゆっくり休もう・・・
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