2009年12月20日日曜日

C・G・ユング「ユング自伝ー思い出・夢・思想」ヤッフェ編 河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳

★★★★☆☆:フロイト・ユングでピンと来る人は必読?

私の中ではユングさんはアニマ・アニムスだの元型だの、魅力的ではあるものの多分に神秘主義的で非科学的な概念を精神医学に持ち込んだ人で、フロイトさんはエロスとかタナトスとか、人間の欲望を使って精神病を説明しようとした人。いずれの理論も科学的に証明はできないのでどっちもどっちではあるのですが、どちらかと言えばフロイトさんが科学的でユングさんが非科学的という印象でした。

しかしこの自伝をみると、そういった見方は決して的を外してはいないのですが、でも完全に正しいというわけでもない、ということに気がつきます。

まず、フロイトさんは何でもかんでもエロスとタナトスでもって解釈しようとしていて、ユングからみれば明らかにムリがあるのにあくまで自説に固執していたこと。エロスとタナトスの二元論に限界を感じたユングは、客観的態度を保持しながら、無意識の構造を理解するために神話や中世の神秘主義、そして未開文明に近づいて行ったこと。何だ。ユングさん、構造主義の走りじゃないか。と言えば恣意的な評価に過ぎるか。いずれにせよ、ユングさんは神秘主義ありきで精神を理解しようとしたわけではない。彼の生きた時代からすれば非常にまっとうな方法で、精神に近づこうとしたことかも分かりました。

目からウロコ。

そして考えたこと。なぜに彼が神秘主義に近づかざるを得なかったのか。それはやはりあの時代、発展する科学とキリスト教への信仰との折り合いをつけるためには、ユングはそちら方面に進むしかなかったのではないか、と思われました。

どうやら時代的にはキリスト教信仰にとってはかなりの危機的状況といっても過言ではない様子。フロイトは出たし、ニーチェも同時代人。自伝では触れられていないものの、マルクスもこの時代のはず。科学は発展してるし、第一次世界大戦の気配もあるという、キリスト教にとってはどうもしんどい時代です。そんな空気の中で、牧師だか神父だったユングの父は信仰に疑念を持ち、そのことによって自ら苦しめられることに。でもユングは神と魂について真摯に思考を深めていきます。

そして彼自身は、キリスト教徒であり続けることはできましたが、自ら「中世だったら私の思想は異端だっただろう」と述べるほどの独自の神秘的な考えを持つに到ってます。つまり、フロイト、ニーチェ、そして科学的唯物論とキリスト教信仰の折り合いを彼なりにつけたのがユングの神秘思想だったではないか、と。

しかし、現代日本に生きる私からすればニーチェの思想のほうがよほど身近に見える。ユングの神秘思想は少しオカシイと思える。この辺りにキリスト教の苦しさが見える気がします。だいぶ端折りましたがね。はは。また余裕がある時にでも書こうかと思います。

非常に興味深いエピソードがあったのでご紹介。滑稽で神聖でそれでいで困惑させるというか、とにかく面白い。かなり記憶に自信はありませんが、まあいいでしょう。

ある日、ユング少年は外で雄大な空と自然の崇高さに打たれておりました。そしてこれほど美しい世界を創造された神の偉大さを想像しました。ユング少年の想像では神様は椅子に座り、天空にそびえておられました。突如、ユング少年は、神の尻の穴について思い至ろうとする自分に気がつき、愕然とし、罪の意識を覚えます。そして神の尻の穴を想像しようとする自分と戦いながら、彼は幾日も悩み苦しみます。そしてある日彼は悟ります。私に神の尻の穴を想像させようとするのもまた、底知れない神のご意志に違いないと。そして彼は心安く想像を飛翔させます。すなわち神の尻から出た排泄物が、教会を破壊する様を。

ホントですってぱ。嘘だと思ったらユング自伝の第一巻を読んで下さい。そういえば、似たような逸話をミラン・クンデラの小説で読んだ気がするなあ。

キリスト教徒であるというのは、つくづく大変なことですねえ。

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