2010年1月4日月曜日

虚構と現実

昔の村上春樹のエッセイに「現実をフィクショナイズするのがノンフィクションで、フィクションを現実化するのがフィクションである」という旨の記述があった記憶があります。文脈的には当時ノンフィクションがいくつかベストセラーとなり、フィクションよりもノンフィクションの方がパワーがあるのではないか、というような批評家の発言や業界の風潮にコメントしたものでした。フィクションとノンフィクションとは全く別の成り立ちがあるのだから、どちらに力があるとかいう議論は的を外している、云々。若かりし村上春樹の気軽なエッセイの中での記述であり、目を吊り上げてどうこう言うのも野暮なのですが、面白い意見なのでちょっと考えてみました。

フィクションが現実でノンフィクションが虚構?分かったようなよく分からないような記述になっているのは、部分的にしか引用していないのが主な原因であって、元のエッセイの方はすらすら読める分かりやすいものです。

この言葉のいわんとするところをもう少し噛み砕くと、ノンフィクションというのは多面的な現実存在をある一定の切り口から分かりやすく提示しているものに過ぎず、それは当然現実そのものの写しではないし、そういう意味ではノンフィクションつまりフィクションでないという言葉も僭称である。現実という複雑怪奇なあり方から一面を切り出したもの、それがノンフィクションであってそれはすなわち現実のフィクショナイズに他ならない。

一方「フィクションとはフィクションを現実化するものである」という定義は、別段難しいものはないと思います。とにもかくにもフィクションは言葉として表現された時点で物理的に現実化されているわけだし、そのフィクションが一定の人に受け入れられるということは、少なくとも読者の心の中でも読者にとってのリアリティとして現実化されているわけですから。

さて、ここで暗黙的かつ素朴に前提されているのは、虚構と現実という二元論です。しかし、両者はそんなに簡単に分けられるものでしょうか。あたりまえだ。虚構と現実。言わば嘘と真。分けられないはずはない。では聞きましょう。聖書は?コーランは?あれは虚構でしょうか。それとも真実?

身も蓋もないことを言ってしまえば人それぞれなわけです。だから、ノンフィクションは現実をフィクショナイズするものであるという定義は成立しないというのが私の意見です。客観的現実が存在しているのは確かですが、じゃあどこまで客観的なものとして合意が取れるのか。どこからがフィクションで、どこからが現実なのか。もちろん村上春樹氏の小説のようなことは現実には起こらない。でも事実は小説よりも奇なりという言葉が示すように、現実もまた不思議な世界です。

政治は現実なのか?経済は?確かに現実かもしれない。でも、それは案外薄っぺらい虚構なのかもしれませんよ。

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