2010年1月8日金曜日

暗い干潟で

素足で干潟に入ると、海の砂のひんやりとした感触がした。海が近いはずだが、まるでコンクリで仕切られたような閉塞感がある。辺りは薄暗い。夜が明けるすこし前かもしれない。ゴミはないが、清潔感もない。都会の排水が流れこんでいるのだ。ねずみ色の砂を踏みしめながら、目に見えない汚れを気にしてしまう。

そこかしこに貝の通った後が見える。まるでさざなみのようだ。貝がゆっくりと刻んだ砂の波。あまりの貝の痕跡の多さに、ただ歩くだけで砂に潜む貝を踏み潰してしまうのではないかとヒヤヒヤする。ぐしゃりとした貝殻と中身の臓物。そんなものを素足に感じたくはない。

そういえば以前にもここに来たことがある。前に来た時は、空の貝殻があちこちに、水溜りのように散らばっていた。あれはきっとカラスに食べられたのだろう。あるいは都会の排水にやられたのかもしれない。灰色の砂に散らばる大量の貝の死。鳥の食欲になすがままに蹂躙される貝の命。あるいは化学物質による貝の虐殺。

慎重に歩み続ける。なぜ歩くのか。どこへ向かって行くのか。分からない。足が勝手に動くのだ。ただただ今いる場所にいたたまれない、それだけの理由なのかもしれない。

遠くに人影が見える。私はそこに向かってゆっくりと歩く。その人影は読書をしているらしいことがわかり、そしてそれが妻であることがわかる。所々崩れた低い塀状のコンクリートに腰掛けて、彼女は分厚い文庫本を熱心に読んでいる。こちらを見るまでもなく、私の存在には始めから気がついていたようだ。読書の邪魔をしないで。そんな思いが伝わってくる。私は少し歩みを止めて辺りを見回す。そしてざわざわとしたただならぬ気配を感じる。

妻から少し離れたコンクリートのそばの溜まりで、深海鮫が苦しそうに息をしていたのだ。潮が引く時に取り残されたのだろう。大きさは3メートルほど。胴体は丸々として、ところどころ弛んだような小さなシワが見える。体全体はのっぺりとした赤茶色の肌。そしてびっくりするほど綺麗で大きいエメラルドグリーンの虚ろな目。鮫の口まで溜まりの水は届いてはいない。それでも口をパクパクしながら水に溶けた酸素を求めている。

足元にはバケツがあった。私は必死で深海鮫に水をかける。鮫の口に水の塊がたっぷりと入るたびに、鮫の命がつながることがわかる。

「もうダメじゃないかしら」

妻がこちらに顔を向けることなく私に言う。

「そうかもしれないね。でも満潮までこいつの息をつなげてみるよ」そうすれば、ひょっとしたら助かるかもしれない。

「でも、その時に鮫があなたを襲わない保証はあるの?」

分からない。あるいは助けた鮫に咬まれるかもしれない。泳げるようになった途端に私には構わずに遠くへ行ってしまうかもしれない。まあ、また後で考えればいいさ。今はとにかく鮫の口に海水を放り込むんだ。

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