良識ぶる気もありませんし、美的でないと眉をしかめるわけでもありません。むしろ私は見た目とか礼儀作法をうるさくいう人間を好まない。
じゃあ何で人の食べる様をことさらあげつらうか。
それは明らかに違和感があるからです。いい大人が、人前で食事するのに足を組んで食べてる。しかも少なからぬ大人がそうしてる。あれれ?という気がする。昔からそうだったっけ。しかも、お世辞にもカッコイイとは思えない。
お作法に則らなくても、アンニュイにでも、カッコよく食べることは可能でしょうに。
どうみてもアレは「ついで」のスタイルです。試しに左手にハンバーガーを持った彼らの右手に携帯を持たせてごらんなさい。実にしっくりくるではありませんか。彼らは自分の考えにとらわれたり、携帯にとらわれながら、ついでに食事しているわけです。あれじゃあ消化に悪いね。
吉行淳之介がどこかで食事という行為の、性行為とも比べられる生々しさを語っていました。むき出しの生の活動です。別の生命を、咀嚼し、嚥下するという行為。それが食事。これを上の空で済ませるというのは、どうももったいないように思えてなりません。
そりゃあマックとか松屋の牛丼とかサプリメントに、そんな生々しさはありませんがね。でも、それはパッケージ化され、イメージ商品となったからであって、マックや牛丼屋の影で多数の牛が殺されているのに違いはない。そうでなくとも、自らの身体に栄養を与える行為です。真剣に行われたっていいじゃありませんか。
食育が大事だというけれども、大人があれじゃあ駄目ですわな。
食事というのは生きるという不思議を味わうことのできるまたとない機会だと思えば、毎度毎度の食事も退屈はしません。日々是れ修行なり。
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