ウィスキーのホットコーヒー割を飲みながら。(ただしカフェイン抜き。)
本日は仏教に逃げます。岩波文庫「臨済録」より。(Amazonのリンクはアフィリエイトじゃありません。念のため)
昔の禅僧、臨済さんの語録です。3/11に会社で泊まった時たまたま持っていて、ウィスキーを飲みながら、読み返したこともありました。
有事には染み渡る本です。
もうニュースに振り回されるのは沢山。少なくとも、当面の間、ニュースサイトのチェックもストップしよう。
固く決意して、禅の話。
別に禅寺で修行したわけではありません。してみたいんだけどね。場所も機会も時間もない。親類縁者に禅寺のお坊さんがいるでもありません。放射線同様、こちらも素人。
さて。
わたしが禅を好むのは、死後の世界としての極楽だとか地獄だとか言わないところですね。山川草木悉有仏性。みな仏なんだ。今、そこに生きているじゃないか。それ。あんたも仏だ。地獄も極楽も、ほら、そこ。あんたの足元にある。
乱暴に言えばそんな感じ。不死の霊魂だとか、宇宙と世界をプログラミングした人格神(それはそれでフィクションとして面白いけど)とか言うより、よほど面白い。唯一絶対の人格神を想定すると宇宙の神秘の解釈に何かと都合がよいらしいですが(全部神さまのせいにしておけばいい)、八百万の神の日本人としてはどうも馴染まない。フクシマ50sだってほとんど神だ。
・・・いやいや、時事からは離れよう。
「悪人正機」の親鸞さんも好きだけど、生き方としては禅の方が気に入ります。
というわけで臨済録。
君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知恵は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様変わりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、[このままで]極まりなく深遠、どこででもズバリと解脱だ。 (下線わたし)
「肉身ではなく君たちそのもの」とありますが、別にいわゆる「霊魂」ではないことにご注意。
じゃあ「君たちそのもの」とはなにか。というと「無事の人」とか「無位の真人」とかいうものらしいですね。
肉体じゃない。魂でもない。「無位の真人」なんだ。
それは何か。
わたしは「無位の真人」=肉体だと思いますね。うん。
何を言っておるのか。さっき「肉体じゃない」と書いておるのに。
いや、肉体といっても、二つのレベルがあるんじゃないか、と。
一つは普段、常識的に、
「喉が乾いたから水を飲む」 → 「水を飲むためにコップを取り、蛇口をひねる(放射性ヨウ素がうめー)」
すなわち「肉体が乾いておる。水分補給を欲しておる」とアタマで考えるところの肉体ですな。喉が乾いているな。客体化された肉体が水分を欲しておる。故に客体かされた身体に、水を補給せねば。水を飲もう。
ところが、最近の脳科学の研究結果によると、これが違うらしいんですね。喉が乾いたから水を飲むんじゃなくて、水を飲むから喉が乾くんだ、と。水を飲んだ結果「喉が乾いたな」という意志が生じるんだ、と。(漠然としているのでソースはありませんけどね)
「喉が乾いた」という意志が生じた結果「水を飲む」と思ってた。
ところが、そうじゃない。
「水を飲む」から「喉が乾いた」という意志が生じた。
どうやらこっちが正しいらしい。
ということは普段「肉体だ」と思っていたら、肉体の方が「普段『肉体だ』と思っている」と思わせていたわけ。
はっ!と気がつくと、自分のウラに自分がいた。
これが「無事の人」とか「無位の真人」だったんじゃないか。と。
もう、そういうことでいいよ。ということにしておきましょう。あんまり長くなってもしょうがないですからね。
次の下線部。
想念が起こると知恵は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様変わりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる
そうなんだよねー。満員電車で揺られると、いろんな想念が起こる。すると知恵は遠ざかり、「週刊現代」の中吊り広告に胸をざわめかせ、迷いの世界をぐるぐると輪廻する。
それは間違っておるんだ、と。
「無事の人」。自分自身を徹底すれば、ズバリ解脱。
解説じゃないよ。解説じゃないよ。解脱だよ。
それって正しいんじゃなか。
自分自身を、徹底すること。
息をして、飯を食って、眠って、クソして。全て、真剣に生きている。
時事に振り回された数週間を振り返りながら、そう思う次第。
というわけで、
わたし=「無事の人」は、もう寝るのだ。
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