2011年4月13日水曜日

臨済録再読(4/13夜)

諸君、正しい見地をつかんで天下をのし歩き、そこいらの狐つき禅坊主どもに惑わされぬことが絶対肝要だ。なにごともしない人こそが高貴の人だ。絶対に計らいをしてはならぬ。ただあるがままであればよい(下線わたし)

ま、昔の中国の修行僧に向けられた言葉ですけどね。

現代日本のわれわれがそのままこの言葉を受け取ってはイケンのかというと、そうでもないのかな、と。

んでもって、特にこの「あるがまま」をもっともらしく解釈する必要もないのかな、とも思いますね。

食べて、ウンコして、喜んで、怒って、笑って、泣いて、寝る。そういう生き方が「あるがまま」。

それでいいんじゃないか。

それじゃあんまりか。

でも、わたしには「あんまりな理解」とも思えないんですな。

自分を振り返って見る。

これまで、食事をちゃんと食べていたかと。心ここにあらず。ボケーッと何気なく食べてなかったか。

ちゃんとウンコ・・・これはいっか。

子供がいいことをしたとき、心の底から喜んだか。

子供が悪いことをしたとき、正しく、子供を傷つけずに怒ったか。

心の底から、笑ったか。

心の底から、泣いたか。

今、この時を、あるがままに、生きているか。

あるがままであれ、と。

あるがままに生きろ、と。

せっかくの人生なんだから。

臨済さんはそう言ってるんじゃないか、とわたしは思いますね。

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