2011年4月15日金曜日

夜の臨済録(4/15)

明日は休みだ!

妻の差し入れを頂きつつ。有難き幸せ。


うん。時事情報を遮断してから精神がいい方向に向かって来てる気がします。
過度な興奮、強い一喜一憂は精神に良くない。
もちろん、怒り、憤りなどなどのネガティブな感情も。心が焼けてしまう。
もともと気分にムラがある躁鬱タイプなので、気をつけねばなりません。>自分

今晩も臨済録。

諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。 (下線わたし)

心は十方世界を貫いている。われわれは、太古の生命と進化の歴史に思いを馳せ、あるいは夜空を見上げ、途方もない広さの宇宙に想像力を飛翔させることもできます。心は時間、空間にほぼ無限に広がり、世界を貫いている。

宇宙があって、星雲があって、銀河系があって、太陽系があって、地球があって、日本があって、東京があって、練馬があって、自分がいる。そういう世界に、わたしは生きている。

父母がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて、どんどん時代を辿るとおそらくは猿人、原始哺乳類に至ることができる。そういうとてつもなくゆったりとした生命の流れの中に、わたしの短い人生がある。

そんなわれわれの世界は、言葉や本はもちろんですが、手に触れるもの、大地、人との関係、食べ物、いろんなものから成り立っているわけです。それは全て「心」のはたらきによっている。この「心のはたらき」。西洋哲学の用語を使えば「超越論的意識」ということになるでしょうか。いちいち意識して宇宙を構成しているわけではない。でも、宇宙がわれわれを取り囲んでいることは分かる。悠久の時間の中に生きていることが分かる。われわれはそれを確信している。世界の成り立ちを確信している。心が貫いているからです。

なるほど。

ところが、臨済さんは「その一心が無である」と切って捨てるんですね。

え?

どういうこと?

ここは、大変難しいところだと思います。

無とか空って、大乗仏教の究極の真理だとか言われます。

わたしもよー分からんです。

頭で考えてもしょうがないんかなーとも思いますけどね。

無。

むむむむ。

ブツブツ考えているんですが、こういう解釈ができるかな。というのが三つほどあります。頭で考えてる時点でダメなんかもしれませんけどね。ま、しょうがないっすよ。

一つ目。時間的な無。
禅は今。この瞬間にズバリと生きることを重視してるわけです。
今、その瞬間。時間的な瞬間を取り出すと、それは実は無じゃないか。
時間があるから、存在がある。
今、そこにある。しかし、その「今」をギリギリまで突き詰めると、それは「無」になってしまう。
ギリギリの瞬間に己れを徹底すれば、それは無なんじゃないか。

二つ目。普遍としての無。
普段、オレオレと思って生きてるわけですね。
これはオレの心だ、と。オレの手だ、と。
しかし、このように十方世界を貫いているような心。それはもはや普遍存在。「個としてのオレ」など超えているじゃないか。つまり、オレなどというものが消えてなくなる。心があるのみ。己れが消えれば、それは無じゃないか。

三つ目。宗教的トランス状態を「無」と呼んでる。
何か静かな場所で座禅とかしてると、トランス状態の宗教体験ができると言います。
それを「無」だと言ってるんじゃないか。

一つ目か、二つ目あたりじゃないかなーなどとつらつら考えております。三つ目だと何だか安っぽい気がする。

ま、そんなところで。

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