2008年8月19日火曜日

数値化は見える化ではなくむしろ見えない化である(プロジェクトの人間学)

【この「プロジェクトの人間学」投稿シリーズは(後略) 初回投稿:はじめに(プロジェクトの人間学)

数値化の危険もメリットも抽象化にあることはすでに述べた。だから過度の数値化は危険である。細かい情報がそぎおとされる上に意識が数字という現象=みせかけに強くこだわる傾向があるからだ。

何のための「見える化」か。それはトラブルの予兆に気が付くためである。数字を眺めてトラブルの予兆に気付くか。進捗の遅れやトラブル数から分かるのはせいぜい「今トラブルが起こっている」程度であろう。その発見すら遅れるかもしれない。数字の向こうを見なければトラブルの予兆は分からない。いや今起こりつつあること全ては数字だけからは分からない。数字は意識的に抽象化された結果に過ぎないからである。すなわち質的な事象を意識的にそぎおとすことができてしまう。数字だけを信頼できないのはそのためである。トラブルを抱えたチームのテスト消化数も極めて順調に進んでいるチームのそれも「同じ一件」である。しかしその質は大きく異なるはずである。例えば前者のテストはテスト結果の確認が甘いかもしれない。前提環境の整備ができていなかったかもしれない。これが後から手戻り作業の大小につながる。順調に行っているプロジェクトですら予定外作業や小さなトラブルが日常茶飯事なのだ。そこに前フェーズ由来の手戻りが発生すると簡単にタスクオーバーフローとなる。後は品質が下がり納期が遅れて行くだけである。

ましてやメールの本数、ソースチェックイン回数、バグに関する数、そんなものをムリヤリ数値化したデータを使って、何かが出てくるはずがない。むしろ現状が隠れるだけである。日本の自殺者年間何万名。内何%が経済的理由でうんぬん。年齢別内訳が・・・そのデータで自殺者が救えるのか。残された人間の何が分かる。数値化しなければ始まらないではないか。そしてあらゆる方法でデータの分析を行う。それをお役所仕事という。他にやるべきことなど、いくらでもある。

プロジェクトを一度徹底的に数値化して管理してみれば、結局何も分からないことが分かるであろう。そればかりか下手をすればプロジェクトが壊れる可能性すらある。

「数値化=見える化」したい要求の裏にはプロジェクトに対する無理解がある。すなわちそのままのプロジェクトを見ても分からない、評価できない。現場の人間と話をしたくない。何を言っているか分からないから。トップマネジメントも一度ありのままのプロジェクトを見てみたらどうか。たまにはメンバーといっしょにプログラムを書いてテストしてみるのも悪くはない。メンバーの抱えている作業負荷が、実感として分かるであろうから。またプロジェクトの状況も、下手に数字の分析に体力をかけるよりは良く見えるのではないだろうか。

「心ここにあらざれば 見れども見えず 聞けども聞こえず」という。気が付く力が重要である。何か変だと気がつく。納得が行かない。どうして?と思う。だがその先に行くのが難しい。ま、いっか。俺知らねーぞ。私のせいじゃない。思考停止である。次が重要なのだ。それは間違っていると思います。何故ならこれこれこうだからです。確かに嫌味なしに指摘するのは難しい。だが指摘しなければ、将来のトラブルはなくならない。「見える化」の前には「気づき」があり、次に「見せる化」があるのだ。問題を取り出し、顕わにすること。おかしいと指摘し、その理由を示すこと。それが「見える化」の本質なのだ。数値化は現象の解釈に過ぎない。しかも極端に抽象化した解釈である。ゆえにほとんどの数値化に認識としての力はなく、射程も浅い。だからよく考えられていない数値化は単なる「見えない化」なのである。「見える化」の本質は人間の有限なパースペクティブ(見晴らし)をチームで共有化することなのである。

パースペクティブとは何か。人間は一時にすべてを見渡すことが出来ない。現象は常にある立場から見た現象に過ぎない。人の立場にはさまざまな制約が働いている。時間(いついつか)、空間(どこで)、バイアス、偏見、好み、経験 etc。おのおののパースペクティブから課題あるいはトラブル以前の課題を引き出し、言葉にして共有化するのが見える化である。そして課題を正しく言語化することが出来れば、問題は解決したも同然である。あとは管理可能なTODO(いつまでに誰が何をするか)が残るだけである。

「見せ方」というとなんだかネガティブなイメージがあるかもしれない。客観的な事実をある政治的観点から「見せる」。偽りのイメージ。プロパガンダ。そうではない。事象が発生するとまずは解釈しなければならない。神であれば解釈の必要はないであろう。あるがままを全方位から捉えることが出来るに違いない。しかし人間は神ではない。その人の持っている背景(制約。時間空間バイアス・・・)からその事象を解釈せざるを得ない。数式を眺めて相対性理論を思いつくか否か。人によってそのくらいの違いがある。ウィスキーが半分残っている。まだ半分あると思うか、もう半分しかないと思うか。人は皆年を取る。40歳になったとしてどう生きるか。何も思わないか。それともそれをきっかけにまったく新しいチャレンジをするか。「客観的」な事象などない。「見せる」前には「解釈」がある。そして「解釈」は力なのだ。力を持った人が解釈し得るのである。すなわち(残念ではあるが)力を持たない人間に力強い解釈はできない。力のない人間は力のある人間の認識を鵜呑みにするか、弱々しい自らの認識にすがる他はない。解釈とは自分を変え、世界を変えることなのだ。解釈にはそれほどの力がある。極端を言えば資本主義だって経済学だって物理学だってそれぞれが世界の解釈なのだ。

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