2008年8月25日月曜日

排中律を意識的に活用する(プロジェクトの人間学)

【この「プロジェクトの人間学」投稿シリーズは(後略) 初回投稿:はじめに(プロジェクトの人間学)

排中律とは「AはBか非Bかのいずれかである」という式であらわされる古典論理学の法則である。何だ当たり前じゃないか。それがそうでもないのだ。排中律をどう適用するかによってプロジェクトにおける判断が異なってくるのだ。

常識的な世界で排中律が成立するかどうか見てみよう。「AはBか非Bかのいずれかである」。Aにりんご、Bにみかんを代入してみよう。「りんごはみかんかみかんでないか、いずれかである」。正しい。りんごはみかんではない。では次はどうか。「脳死は死であるか、死でないかいずれかである」。ほれ。難しくなった。答えは「なんとも言えない」あるいはシニカルに言えば「政治が決める」であろうか。以前はやかましかったこの議論であるが、現在はどのようになっているのだろう。では次はどうだろう。「アプリケーション障害は将来起こるか起こらないかのいずれかである」。どうも起こりそうな気はする。でも起こって欲しくはないし、アプリケーションの完成度からすると起こらなそうな気もする。ようするに「分からない」のである。排中律はこのように「分からない」状態を排して、二つに割り切ってしまう。ある意味で非常に乱暴な論理なのである。

実は排中律は現実的な論理ではない。「どっちなんだ」。「わかりません」。それが正しい。だが、そこを逆手にとって利用することが可能である。すなわち「現在得られている情報では、AはBか非Bのいずれかであり、定義より非Bなのです」と言い切ってしまうことができるのだ。これで何がうれしいか。「違う」ことが説明できるのがうれしいのである。なぜわざわざ「違う」ことを示さねばならないか。ある障害が起きたとする。「またですか」と顧客がうんざりした声で言う。これって前に発生した障害と「同じ」じゃないですか。なぜまた「同じ」ような障害を繰り返しているのですか。いえ。前に発生した障害とは違います。何故なら、以前の障害はこれこれこういう前提の元で発生したものです。今回は前提が全く違います。故に別の障害なのです。ある程度抽象度のレベルを上げてしまうと本来「同じ」とすべきでないものまで「同じ」に見えてしまう。それは意識のもっているバイアスである。細かい現実を正確に把握しようとする時に「全てが違う」と世界観を構成する際の邪魔になる。だから「違う」ことを排中律を用いて明示することが重要である。

排中律を意識的に適用することで、物事をきっぱりと割り切ることができる。本来事象はきれいに二つに分かれるものではない。だが条件と前提をはっきりさせればスパっと分けることができる。排中律は、あいまいさを許せないというマネジメント層・顧客層を上手く説得するテクニックなのである。

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