よくあることだ。わが家のあわただしい朝が始まるまであと1、2時間。まだ暗いうちに自然に目が覚めてしまう。深酒あるいはストレスのせいではないかと気にしたこともあったが、どうやらそうでもない。酒を飲まなくても、仕事が楽なときも、目が覚めるときは覚める。だから最近はこういうものだと受け入れるようにしている。目をつぶって横になっていれば、運がよければ一眠りできるし、眠れなくてもそれなりに疲れは取れる。中途半端な時間に目が覚めてしまったら、とにかく余計なことは考えないことだ。
しかし、余計なことを考えない、これが難しい。気がつけば厄介な仕事のことや、昔の赤面するような行動のことを考えている。あるいは、せっかくウトウトできても、厄介な記憶を交えた夢に叩き起こされる。リラックスしつつ、何かを持続的に、意識的に思考することなど不可能なのだ。眠るためにはリラックスする必要があり、かつ余計なことを考えない必要がある。しかしその二つが両立することはない。
お気に入りの映画や小説のストーリーを想起してもだめ。好きな絵画(ルノワールとか)を思い起こすのもムダ。気持ちが緩んだ途端に、いつのまにか余計な想念に取って替わられている。音楽についていえば、バッハやドビュッシー、場合によってはビル・エバンスが効くこともあるがいつも有効なわけではない。草原の草いきれと穏やかな太陽。そして暖かい光に包まれながら横になるイメージが効いた時期もあったが、最近はそれもダメ。般若心経を唱えてみたら毎日仏壇に向かっていた亡き祖父の親密な記憶がよみがえり、心地良い気分に近づくことができた。でも、記憶の泉はあっというまに枯れてしまい、敢えなく現実=「不本意ながら目が覚めてしまった朝の4時」に引き戻されてしまった。もはや5時は過ぎているだろう。
気がつけば朝布団の中で不愉快な(あるいは不愉快だった)仕事のことを考えている自分がいる。自分を責め、その反動で周りを責める。あの時ここに気がついていれば。あの時こうしていれば。今頃はこんな障害は起きなかったのに。
後悔、悔悟、自責の念に囚われる自分。この時、意識は二重の構造になっている。超越的な自我が不恰好で失敗ばかりする経験的な自我を責め苛んでいるのだ。超越的な自我とは時空を超えた存在であり、極めて厳格な倫理観を持っている。彼は言う。原因を消せ。そうすればその結果としての障害は消えることになる。哀れな経験的自我=私は必死に原因を打ち消そうとする。でも当然そんなことはできはしない。ダメだ。できない。でも、何とかしなければ。不可能と過酷な命令の板挟みとなり、布団の中でうなされ続ける。
超越的な自我はいつのまにか顧客や上司の姿を取っている。どうしてあんなことをしたのですか。やる気はあったのか。あの時はああするしかなかったんです。やる気はありましたよ。あんたよりよほど真剣に考えていた。
ふと気がつく。どれもこれも終わったことじゃないか。いまさらどうしようもない。いっそ現在を全力で肯定すればいいさ。そこからしか始まらないじゃないか。
超越的な自我はこう言う。いや。何も終わってない。何も始まってないし、何も解決などしないさ。また君は失敗する。そして私は君を容赦なく責めるだろう。
時間こそが鍵なんだ。無時間の世界では原因と結果が逆転する。そして超越的な自我にとっては過去も未来も関係ない。抽象に囚われすぎたアタマはもはや経験から解離してしまう。そして過去を変えようという絶望的な戦いに人を駆り立てる。過去をやり直せるわけはないのに。
過去はもはや過ぎ去ってしまった。もはや存在しないのだ。こう考えて私は少し落ち着くことができる。そしてゆっくりと息を吐きだし、息を吸う。そして混沌とした夢の世界へと再び入り込み、意識を失う。
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