2010年7月13日火曜日

何でブログを書くか

何でまたこうしてマメにブログに書くかということをたまに自問します。自分でもその理由はよく分かりません。

心でうごめくマグマがその出口を探していると、たまたまブログという穴があって、そこからドロドロと噴出しているような、そんなイメージがしっくりきます。

すなわち自然(じねん)に、spontaneousに何だかどりどろりと出て行く、それがブログなんだと。

ハタ迷惑なもんです。

このようなマイナーなブログであっても、こうしてbloggerのディスクの一部を消費しておる。たまたま目に留まって読んでしまった方のお時間を頂いておる。大変な迷惑をお掛けしてるんだなあ、恥ずかしいことであるなあ、と思いながらこうしてどろどろと記述しているわけで。

そんな風に反省しながら記述するわけですが、記述するにしてもエネルギーがいるものです。

そのエネルギーの源泉は何かと言えば、ストレスなり怒りなり、何らかのネガティブな感情ではないか、とそのようなことを思います。そういうモチベーションがないと、そもそも書こうという気にならない、というか。

あるいは逆に愛とか感動とか、そういうポジティブな感情でも書けるかもしれません。しかし私はあまりポジティブな感情で物を書くことは少ない、というかポジティブな感情だと余り量が書けません。「とてもよかった!」「すごかった!」「必見(必読)!」で終わっちゃうんです。ということで、ネガティブな感情の方が、現れる時のパワーが強い。

何の因果か、と思います。

考えてみれば、お釈迦様もイエス・キリストも、敢えて自ら書いて残すということはしなかった。

多分、お釈迦様もイエス・キリストも自分で書く必要などなかったんだろうな、と愚考します。

何かしら書きつけ、つらつらと訴えるのは凡夫の仕業である。充ち足りないから書くのだ。

ゆえに、表現には、何かしら邪悪な、こすっからい、言い訳じみた、人をだますような、そういうニュアンスがどうしても付きまとう。

無心坦懐、ストレートに書く文章など、存在しないんじゃないか。というか、たまに手帳に思いついた感動をそのまま殴り書きすることがあるんですが、使い物にならんです。その時の、極めて個人的、限定的な、一時の感情ですからね。それが、一時的にどれほど高まったとしても、ただ書き殴っていては普遍性は持ちえない。普遍性を持たせるためには、客観化し、口当たりよくする必要がある。そのためにはエネルギーがいる。そのエネルギーをまかなうためには、何らかのモチベーションが必要。そのモチベーションは、何らかのネガティブな感情(怒り、ストレス)から生まれやすい。

何を言っておるのか。最近、私は仏教によってなんとなく救われた感があるんですよ。

仏教に救われた、なんて2年前の私からは想像もできない。

しかしながら、本当に救われてしまった。この辺、どうにも人に説明しにくい。でも、本当に心が少しだけ安らかになった。このことは伝えたい。

そんな風に思いつつ、数ヶ月間書けなかった。

何で私は救われたか。救われてしまうと、そんなもん、どうでもええやんけ。書くことないやんけ。と思っちゃう。

人から迫害されれば、なんとなく「私はこんなひどい目にあった!!!」と怒りにまかせて書くのでしょうが、救われた、という話はなかなか書けない。

だって、書いてしまうと怪しいじゃないですか。なんでこいつこんなこと書くんや、と。何か企んでるんちゃうか、と。

ま、そんなこともあって、仏教に出会って人生観が変わったということは、なかなか書きにくいんだなあ、とそんな風に思うこともあります。


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