2010年11月5日金曜日

鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー

★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察

最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。

ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。

もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。

当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。

今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。

もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。

逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。

さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。

一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)

次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。

最後に、ファッションが本当に好きな人。

上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。

わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。

気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。

服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。

でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。

気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。

何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。

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