暴力について。
んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。
普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。
「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。
なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。
毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。
人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。
そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。
0 件のコメント:
コメントを投稿