2010年11月7日日曜日

再びファッションについての考察

メンズ・ノンノを眺めながら美容師さんにカットしてもらっていた時のこと。「お。XXさんもファッションに興味が出てきましたか」などと揶揄されつつ、とりとめもなく会話していたら、七部袖のシャツについて印象に残るコメントがありました。美容師をしていると、長袖の服ではどうしても袖に毛が付いてしまう。いちいち袖をまくるのも大変だし、暖房も効いてるから、本当は冬でも半袖で問題ないのだけど、それではお客さんから見てあまりに寒々しいと思われるので、七部袖が便利なのである、でも、冬だと七部袖でも何だか寒々しい印象を与えるんじゃないかと少し気にしている。ということでした。それを聞いて私は、なるほど服装というのは、やはりそれを見る他人に対する思いやりということなのか、と思ったのですが、ひるがえってメンズ・ノンノのモデルさんたちを眺めていると、どうもそればかりではないなあ、とも思われました。

前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。

「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。

まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。

もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。

それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。

それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。

ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。

まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。

そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。

カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。

しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。

どういうことか。

好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。

一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。

ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。

となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。

この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。

残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。

はい。疲れたので、おしまい。

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