難解な西田哲学ですが少ーしずつ分かってきた気がします。
例えば作るものと作られるものについて。作られたものが作るものになる。
そう言われると、例えばわたしという存在は親によって作られた存在なわけですが、これがまた親になると子を作るようになる。つまり、作られた存在としてのわたしが、作る存在になる、とまあ簡単に解釈していたんですが、この解釈はミスリードなことが分かってきた。
そうじゃなくて、むしろ人間には環境を改変する力があり、その改変された環境によって人間も作られる、そんなダイナミックな関係があるのだ、と解釈したいですね。
また、作られたものというのは、必然的に過去のものですね。「作られた」もの、つまり過去形なんですから。その過去が「作られた」ものとして現在を限定しにくるわけ。でも、過去ってのは「ない」わけ。あるのは「現在」しかないから。じゃあ、その「ない」はずの過去がどうやって現在を限定しに来るのか。実は、ここにある「過去」ってのはすでに現在なわけですね。作られたものとして、現在にある「過去」。その過去(=現在としての)が現在を限定する。つまり、現在が現在自身を限定する、という絶対矛盾的関係がそこにある。
そして、そのような存在は必然的に表現的たらざるを得ない、と西田さんは続けます。どうしてかというと、過去はあくまで潜在なわけですね。その「潜在」としての過去が、現れる。現在とは表現の場所である。
過去が現在として現在を限定する。そんなダイナミックなあり方を西田哲学は語るんですけど、これって凄いじゃありませんか。フッサールの時間の考え方にしても、やはりどうも直線的な考え方に近い。沈殿とかね。しかし、西田哲学の語る時間は、本当に生きられる時間だと思う。
おもしろいっすよ。
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