2010年1月27日水曜日

櫻部建 上山春平「仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>」角川文庫

★★★★☆☆:仏教思想を語る本がもっとあってもいい

個人的には仏教の思想、特に原始仏教思想はわりとしっくりくる思想です。宗教ということであればやおよろずの神もそうですけどね。大晦日には寺に行き、正月には神社に行く。実家の仏壇にはホトケになった祖父の骨が置いてあって、居間にはアマテラスオオミカミの神棚がある。応接間には天神様=菅原道真公の掛け軸。全く違和感なし。今のわが家にはないけれど、父がホトケになれば仏壇ぽいものを置くだろうし、そうなれば神棚もついでに置くことになるかもしれません。ついでというのも失礼な話ですが、自分の中では矛盾しない。

まあそれはともかく原始仏教思想の一つ、アビダルマの解説本です。アビダルマの位置づけなど細かい話については割愛するとして、面白かったのは無常についての話でした。

アーガマ経典=阿含経には以下のような叙述があるとのことです。「すべては無常である、無常なものは苦である、苦であるものは無我である」。よく分からないわけですが、櫻部建氏によれば「無常なのに常にあると思っているから苦しい。苦しいのは自己であるが、そもそも無常なものに常を見出そうとして苦しむ自己など常住不変な主体ではない。故に自己などない」という意味だそうです。深い。

私なりに解釈してみるとこうなります。

自我が存在するから苦しいのか。それとも苦しいから自我が存在するのか。ひょっとしたらむしろ後者ではないのか。つまり感性的なインプットがあると、それを何とか整理しなければならない。その雑多なインプットを整理するための入れ物として、自我があるのではないか。すなわち自我とは苦の原因ではなくてむしろ結果じゃなかろうか。

普通は私がいるからあの山は存在するのだ、などと考えません。山の存在の原因は私ではない。まず山があって、次にそれを見ている私がいる。では苦しみはどうか。まず苦しみがあって、次に私がいるのではないか。

でも苦しみがそれ自体で存在するわけではないじゃないか。苦しむためにはその苦を受ける存在があるはずだ。だからその苦しみを生きる主体が、苦しみよりも先んじているのではないか。

苦しんでいる存在。西洋ではそれを自我とか主観と呼ぶわけですが、その裏にはキリスト教的なバイアスが潜んでいる。つまりキリスト教の救済の対象としての魂です。彼らは自我ありきで考える。

でも苦しみというのは苦しいと考えたから苦しい、というようなものではない。ただ苦しいのである。もちろん苦しいことを考えれば苦しくなるに決まっている。しかしなぜ苦しいことを考えざるをえないのか。そこが問題である。つまり、苦しみとは自我とはまた別の自発的な源泉を持っている。じゃあその自発性とは何か。

西洋風にいえば、それは自我を超えた自己意識、つまり超越論的意識に求められるわけですよ。超越論的意識が苦しみを構成している、と。やや牽強付会か。まあいいや。

しかし原始仏教ではどうやらそうは考えない。むしろ、我苦しむ故に我あり。つまり苦が先にある。じゃあ苦を生み出しているのは何か。実はそんなものはない。となるわけですな。だって無我なんだもの。だから我とか自己とかそんな言葉は空に過ぎないんだ。単に世の無常を悟らない無知があって、それが自我だとか何だとか空しい言葉を言ってるだけなんだ、と。常に存在する我などない。無我だ。

じゃあどうやったら苦しみから逃れられるのか。といえば集滅道の話になる(多分)のですが、それはまた別の話。

どうですかね。西洋の超越論的意識という考え方もアリだと思いますが、仏教の無我の思想も全然通用すると思いますね。卑近な例で言えば、オレオレと自我を意識してる時間よりもぼけっとしてる時間の方が長いしね。まあそんなところです。

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