2010年7月14日水曜日

子供を怒ることについて

ぶっちゃけ体罰についてです。実際に手を振るわなくても、怒鳴りつけるとか、怒り狂って説教するとかそういうのも含めます。そういうのも体罰の一種だ、と聞いたことがある。磯野家の波平さんも正座させて説教する。それも体罰ということになる。そう定義しておきます。

というわけで、体罰について反省してみる。反省する前に世間の意見を思い起こしてみると、体罰はさすがにダメじゃないか。いや、体罰くらい良いんだ。と二極に分かれるわけです。

私は基本的に体罰はいかんと思ってました。その理由は二つ。

  一つ目の理由は、一旦体罰を許可すると暴力が正当化されてしまう。それは恐ろしいことだ、という実感を伴った拒否感。(中学生の自分の記憶に基づく。)

  それから、なんといっても暴力を正当化するわけにはいくまい、という非暴力原理主義。これはむしろ頭で考えた方。

そうやって体罰=悪という図式を絶対視して一人目を育てていると、なかなか悩ましい局面に遭遇するわけですよ。二人目になるとまた違うのだろう。でも、一人目はどうしても神経を使ってしまう。こうあるべきだ!というのが前面に出てしまう。ピリピリ育てて怒ってしまう。哀れなり長男長女。

子育てで頭に来る局面。たとえば食事の手伝いをしない。いくら言ってもしない。「手伝いをしろ」と10回も言ってみて、「ああ?」などと生返事されてマンガを読み続ける。さすがに怒鳴りつけたくなる。つーか怒鳴りつけてしまう。

そして。あああ。また怒鳴ってしまった。後悔する。

しかし、じゃあ体罰は絶対ダメとして、どうすればええんや、と。家族として食事の手伝いはさせたい。しかるに、我が子は馬耳東風。糠に釘。暖簾に腕押し。(こんなことわざがあるところをみると、昔から子供と言うのは親の言うことを聞かなかったに違いない)

さすがに怒るべきじゃないのか。いやいや、やはり怒るにしても怒鳴りつけるのはいかがなものか。でも、完全に頭に来てしまっている。で、いかんいかんと思いながら怒鳴りつけてしまう。

日々悩んでおったら、ある本を見て「やはり体罰に目くじら立てる必要はない」という尊敬すべき筋からの意見を見ました。

でも、いやいや。やはり如何に愛を以てするとは言え、暴力は暴力。体罰はいかんでしょうが。と思う。暴力を是認してはいかんのではないか。

そうは思ってみるものの、体罰を受けてなお、まあ、そういうのもアリじゃないか、と思う人間がいることは理解できる。私も父親の(記憶に残っている)唯一のビンタを思い出すが決して恨んではいない。

でも、その人には「体罰も愛があればよい」と思えた。しかし、皆が皆体罰を受けて、いやあ、あの体罰は愛の鞭であった。先生の愛であった、感謝感謝。と思うことはないであろう。

だからなるたけ怒りたくはない。しかし親にとってしてみれば、止むにやまれず子を怒鳴りつけることがある。それは、愛故にというよりも、先生が、親が、不完全な存在だからなのだ。

子供が、そういうことを、大きくなって気がついてくれれば、心にもなく怒鳴り、手を上げたあの時を許してくれるかしら。でも、それを期待してはいかんなあと思いつつ、

暴力は絶対に正当化されてはならぬ、と思いつつ、

こう言った矛盾が包摂されるのが、仏教的態度なのではなかろうか、と思います。

なぜって「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」ですから。

われわれはみな、不完全な存在。凡夫なのですから。

阿弥陀様は「しょうがないなあ」と考えられつつも、ちゃんと見ていただいているのかも知れません。

あるいは私の中の無位の真人は、情けない、とわれわれに怒っているかもしれません。

とにかくこの娑婆世界では救われることがない、それこそが凡夫が凡夫たるゆえんではないか、と。

合掌。

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