2008年5月12日月曜日

「同じ」と「違う」(1)

埴谷雄高氏の「死霊」に出てくる有名な言葉に「自同律の不快」というのがあります。私はこの言葉を、カントの「同一律」と物自体、ニーチェの力への意志、それから養老猛司の「同じ」ってやつだな、うんうん、と勝手に解釈し、それなりに納得したつもりでいました。

ある日、もう半年以上前でしょうか、日経新聞の夕刊で「死霊」に関する記事を読みました。そこでは「自同律の不快」のことを『「私は私である」と言い切るのは不快だという感覚』であると解説していました。
さすが日経、浅はかな解釈であることよ、と鼻で笑っていたのですが、Webで見る限りどうも一定のお墨付きを得た解釈のようです。むしろ埴谷雄高氏がこの言葉を使って自ら語ったことがあるような様子すら見受けられました。(気楽なエッセーなので言質を取ったりしち面倒くさいことはしませんが)

改めて読めば、確かに大きく的を外した解釈ではなさそうです。「私は私だ」という経験上自明である言明に不快感を示す、一体どういうことだ?と興味を引きますし、少なくともA=Aが不快だ、と言うよりは分かり易い。

しかし私は文字通り「A=A」が不快である、という意味で「自同律の不快」という言葉を受け止めたいと思います。

「私が私である」はもちろん(養老猛司風に言えば)「虫は虫だ」というのも自同律です。A=Aであるという形式を元に世界を構成する理性の乱暴さ。それに対抗する「自同律の不快」は普遍的な共感を得ることができると思うのです。

(続く)

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