2008年5月20日火曜日

「同じ」と「違う」(4)~ 抽象化

前回の相対性理論に関する記述を少し補足します。
相対性理論に含まれる数式は何語に翻訳されようとも当然同じです(というか翻訳の対象ではないですよね)。これは「記号」の配列だからです。しかし相対性理論の「解釈」は異なる可能性がある。量子力学を理解している人と、講談社ブルーバックスを斜め読みした人とは当然解釈がことなる。そういうことです。

では「似ている」について。

通常「同じ」と混同されている言葉に「似ている」があります。

例えば「Javaの参照とC言語のポインタ」は似ている」⇒「要するにJavaの参照ってのはポインタだよね」。このようにして人は新しい物事を理解します。つまり「似ている」というのは物事を把握するための重要なステップなのです。

(余談)「Javaの参照とC言語のポインタを混同するな!」と怒る人もいそうですが、Javaで普通に開発するのであればその程度の理解で十分だと思います。

しかし、「似ている」(以降はそれっぽく「アナロジー」と呼びます)とするためにはその前段階である特徴なり構造なりを取り出す必要があります。Javaの参照とポインタの例で言えば、前者はクラスの実体ではなくその(比喩的には)場所を指しています。ポインタは実メモリの番地を指している。まず、それぞれが「場所を指している」ということを取り出す必要があります。これを抽象化と言います。

事物を抽象化して構造なり特徴なりを取り出し、別のものとアナロジーによって理解して「同じ」だと判断する。ここには二つの「切り捨て」(捨象)が含まれています。

まず抽象化によって細部(具象)が切り捨てられる。例えば虫について言えば、ゴキブリだろうが蝿だろうが「足を6本持った存在」まで切り捨てられます。これが一つ目の捨象。次にその足がどのような足かに関わらず「足が6本なら、同じだ」とされます。これが二つ目の捨象。

抽象化とアナロジーによって世の中は単純に見えます。
虫に何かいちいち構っていられない。自分が乗る電車にいちいちこだわってはいられない。虫は虫だろう。電車は電車だ。そう断ずることによって、考える手間がずいぶん省けます。

しかし当然副作用もあります。つまり「同じ」と思い込んでいるけれども実は全てが違う。つまり誤解をしている可能性だって大いにある。もちろん、抽象化して「同じ」だと断じた結果、本質を取り出すこともできます。

抽象化した結果、無理解に陥ったのか。それとも本質を見抜いたのか。次にそれが重要となります。

(続く)

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