2008年8月12日火曜日

意識と自然 ~ 原因と結果は存在しない(プロジェクトの人間学)

【この「プロジェクトの人間学」投稿シリーズは、昔私が出版社に持ち込んだ原稿からコピーしたものです。某出版社でページ数を増やすことを条件に書籍化の話を頂いたのですが、いろいろあって何となく立ち消えになってしまいました。しばらく音沙汰もないので、少しずつ投稿して行こうと思います。】

自然の大雑把な定義が終わった。プロジェクトで発生する意識にとって好ましくない事象を自然と定義したわけである。次に出てくるのは意識の定義である。これについて正面から立ち向かうのは大変である。しかしここではプロジェクトの観点から意識を捉えることにして無理やり話を簡単にする。

これまでの文脈より、意識はまず「自然と対立するもの」と定義できる。発生した障害に対して、意識は感覚的には不快感を覚える。そして理解しようとする。文脈を整理し、因果関係を調べ、原因を究明する。そして障害への対応を行う。すなわち意識には以下の作用がある。

・トラブル(障害含む)に対する強い負の重み付け(障害は不快である)
・現在のトラブル対応への強い志向(不快であるが故に済ませてしまいたい)
・将来のトラブル対応への強い志向(今後あってはならない)
・政治的な関係に対する強い志向

また、意識には以下の機能がある

・抽象化能力
・因果関係適用能力
・論理的能力(推論、ロジック組み立て能力)
・その他重み付け能力(正しい美しい) などなど

意識の能力にはさまざまであるが、ここでは特に抽象化能力と因果関係適用能力に注目する。両者をもう少し噛み砕いて説明する。前者の代表的なものは異なったものを「同じ」と判断する能力である。後者は「ああしたからこうなった。すなわち、ああすればこうなる」と文脈を判断し予測する能力である。抽象化能力はプロジェクト状況把握の基礎となり、因果関係適用能力はプロジェクトをコントロールする際の基礎となる。

ここで因果関係適用能力について補足する。原因と結果は頭の中にしかないんだ、と話すと理系の人間(に限らないのかもしれないが)は大抵きょとんとしている。存在すると思っているのであろう。そういう人間に「だったら原因と結果を取り出して見せてくれ」とまでは言わない。そういう意地悪をしていると、だんだん相手にされなくなるからである。

原因も結果も実体として存在するものではない。だとすればどこにあるか。頭の中である。つまり原因も結果も概念でしかない。概念は現実に存在するものではない。ゆえに原因も結果も存在しない。明らかである。そう思えない人は原因と結果に強い実在感を持っている、それだけのことである。確かに原因と結果は重要な概念である。これがなければ意識的な日常生活は立ち行かない。働いているから給料がもらえている。それを信じているから今日もまた嫌々ながらも仕事に行く。

話はそれるがこの手の議論にはいろいろなバリエーションがある。例えば「会社」の存在である。筆者が最初に就職した会社で、新人研修があった。その場で常務から「会社なんてもんは存在しない。君たち一人一人が会社なんだ」という話があり、非常に納得した記憶がある。だがそれが気の利いた訓示足り得るということは、会社に強い実在感を抱いている人も多いということであろう。あるいは「国家」が存在するのか。国家公務員にとっては間違いなく存在すると思われる。だが普通社会で生活している人はあまり「国家」を意識しないであろう。存在を疑うまでは行かないであろうが。一般的には、国家は例えば総理大臣であったり国会であったり税務署であったり、ある具体的な対象であって決して何らかの実体として存在しているものではないはずである。実は言葉上は存在している対象が、実際には五感で感じることができない、といったことが非常に多い。例えば「猫」だってそうである。あの猫、この猫は存在するが単なる「猫」は存在しない。「猫」もまた意識の抽象の結果なのである。

あの猫、この猫を抽象化して猫というカテゴリーに入れ込む。これは意識の「同じ」と判断する能力によって可能となっている。これについて少々補足する(興味ある方は養老孟司氏の本を読まれた方が話が早い。例えば「無思想の発見」(ちくま新書))。例えばOSがある。Windows、UNIXさまざまなOSがある。OSによって、その機能は異なるが実際に関わる人以外は「要はOSだろ」と言うことができる。「同じだ」と。Windowsにも種類があるし、UNIXにも種類がある。HP-UX、AIX、Soralis、そしてLinuxがあり、Linuxにも種類がある。だが、どれも「要はUNIXなんだろ。だったら同じだ」と言うことができるのである。抽象化することによって理解と判断が早くなる。Soralisに精通した人であればその他のUNIX系OSの学習も早いはずである。「同じ」を出発点としてアナロジー(「似ている」)によって理解を進められるからである。

閑話休題。

以上からプロジェクトにおける意識と自然を整理するとこうなる。

意識
 成功への正の重み付けと非成功への負の重み付け、ならびにツール(抽象化能力、因果関係整理能力など)を持つもの

自然
 意識の活動から必然的に生まれる事象で意識が負の重み付けをしているもの。

ここで一旦われわれ「人間」に戻ってみよう。意識にとって好ましくない事象を引き起こすのは自然な人間の行為である。つまりここで意識と自然という二元論は人間という要素に一元化される。人間は意識であり、かつ自然である。プロジェクトを回すのは人間。ということはプロジェクトは結局人の活動であり問題は人が引き起こすものである。要するに人間のすることだろ。上手く行くかどうかは人次第。トラブルに関して言っても、要するに人が何かやってうまく行かないことに、腹を立てている、とこうなる。そうなれば話は簡単で腹を立てなければよいのである。トラブルが発生しても粛々と対応すればよい。うまく行っている時は腹も立たない。それだけの話である。

それを大騒ぎするから体力がかかってしょうがない。はじめから腹を立てなければ話は早いのである。完全にコントロールできると思わなければ諦めもつく。そうすれば無力感だって生じない。

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