2009年4月29日水曜日

死について(なんか唐突ですが)

しみじみ系です。

ハイデガーの「存在と時間」で、現存在とは他でもない自らの死に臨んでいる存在である旨の記載があって、要するにこれを平易に書くと「死ぬのはお前だよ」っていう程度の意味になるかと思います。この本、本質的なレベルまでは理解できてない私に批判も賛同も出来ないんですけど、全体的に何となく違和感がある本です。上手く言葉にはできませんが、この本が刊行されたのが第一次世界大戦中(?)だったという時代背景の違いや、もちろん文化の違いが大きいかと思います。

具体的には「死ぬのはお前だ」「死はお前の死だ」という発想に違和感を感じます。正しいとは思います。でもしばらく生きていると「死ってのはオレのものじゃないよな」というかむしろ「死は愛する人の死」であり「死ぬのはお前の愛する人だ」と言われる方がピンと来る気がする。

ソクラテスがどこかで「死んで無になるなら休めることができて嬉しいし、死んでも魂が残るならそれはそれで嬉しい。ゆえに死ぬこと自体は恐怖でもなんでもない」というようなことを言ってましたが、感覚的にはそれに近い。まあ霊魂が残るとは思ってないので、死んだら要するに眠ったときのような無意識になるんだろうな、と。だったらそれは別に怖いことじゃないなと思っています。若いころは自分が死んで無になると思っただけで底知れぬ恐怖を味わったこともありました。でも今はそうでもありません。

もちろん死に向かうプロセスで苦痛があるのはイヤですけどね。それに思いが残って死んでも死に切れないというのも避けたい。まあこの辺から文章を展開すると、一瞬一瞬を全力で生きよう、明日死ぬとすれば今何をするか、という一般的な啓蒙本に近くなってくるのいったん止めます。

つまり、自分の死なんて大したことない、それよりも周りの死の方がずいぶん重い気がする。やはりかけがえのない存在ってのはあります。それは家族や友人です。自分にとってかけがえのない人の死こそが、人が生きて行くにあたって直面せざるを得ない理不尽で苦痛で悲しみに満ちた「死」だと思います。なんといっても自分の死というのは、死んでしまったら終わりですから。

逆に考えると、私だって誰かにとってはかけがえのない人です。少なくとも子供にとっては。自分の経験から言っても、子供は「お父ちゃんは明日死ぬかもしれない」と思って生きているわけじゃなくて、むしろ自分の両親に限って死ぬはずがない、と思っている。そうなると、やっぱりこれは簡単には死ねないな、と思えてきます。

話は少しズレますが「自殺はなぜいけないか」「殺人はなぜいけないのか」という質問にも、上の流れから言えば、まずはストレートに答えることができます。すなわち「誰かにとってかけがえのない人が自殺するとか、殺されるということはあってはならないから」。まあ意地悪くつつけばほつれそうな回答ですが、さしあたりそれでいいんじゃないか。それは人のものをとってはいけないとか、基本的な倫理の問題だと思います。

となるともう一つ「じゃあ本当に天涯孤独の身で、誰からも必要とされていない存在は自殺しても殺されてもいいのか」というイヤな問いを私は思いつくのですが、やはりそんな人を作ってはいけないというか、仕事なり社会の役割を負わせたり、友人なりを作ったりして、誰かにとってかけがえのない存在になるように、その人も周りも何とかしなければならないんじゃないか、と思います。

さらにズレてニヒルなことを言いますと、仕事ってのは極端を言えば誰にだって出きるんですよね。例えば総理大臣なんて誰がやってもそんなに変わらん。これ以上の喩えはいらないと思います。自分の仕事が総理大臣の仕事以上に重要でかけがえがないものだ、と思っている人は置いといて。残念ながら、組織的に効率的に仕事を進めれば進めるほど、ある立場の人がその人でなくてはならない必然性はなくなってゆく。組織が自らを守ろうとする=組織の中であるポストを得ている人が、自分と周りを守ろうとするのは、自分がいくらでも取替えのきく存在だということが分かっているからかもしれません。

逆にいえば「組織に属すること」をいくら徹底しても「その人のかけがえのなさ」ってのは生まれないってことですよね。まあ、それは極論であって、例えばイチローとかその人でなくちゃ!という役割を果たすことで周りに感動を与えたり貢献することもできなくはないので、仕事だからといってこの自分には無意味だってことにはなりませんね。

まとまってないですが以上。
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