2009年7月8日水曜日

「明るい部屋 写真についての覚書」ロラン・バルト みすず書房

★★★☆☆☆:カメラ好きなら読んでみてもいいかも

写真論です。(バルト曰く「鷹揚な」)現象学的な方法を使った論考ですが、すでに亡くなられた彼の母親への、写真を通じての心温まる追憶とも絡めて書かれており、情感あふれるエッセイとしても読めます。

写真は志向性そのもの(志向性=意識は常に何かについての意識である)とか、過去を現前させるとか、要所要所だけを摘まむとつまらないんですが、読み応えのあるテキストでした。

でも、読んでいて2点ほど違和感が。ひとつは、彼自身には写真を撮る趣味がなく、あくまで鑑賞する側の視点に立った論考であるがためのもの。もうひとつはカメラの技術的発展とイメージのデジタル化に由来するもの。

実際にカメラを構えてみると、写真ってのは自分の印象通りにはなかなか映らないものだ、ということを思い知ります。下手なアマチュアの私には安易に「写真=志向性そのもの」とは言えない。その時持った対象への志向性に伴う質感が、写真からはこぼれおちていることが多い。あるいは(結果的に)よく写せた写真では、その時感じた以上に対象に肉薄している様子が感じられることもある。その場の志向性を超える迫力を持っていることがある(この「志向性」の使い方は大丈夫かな)。

つまり、自分で写真を撮ると、写真ってのは思ったよりフィクションに近いものなんだ、ということが実感として分かるんです。確かに写真には、その時間違いなく存在した何かが写っている。でも実際の写り方によって印象は大きく変わります。だから「写真=かつてあった事実を(角度は固定されているものの)そのまま写したもの」という解釈はちょっと気に入らない(バルトも含みは持たせてますけどね)。事実と印象って危うい関係にあるんじゃないかな。写真に写っていることは確かにそのときそうやって光が捉えたわけで、それは事実。でも印象も真実も、事実とは異なる可能性がある。

フォトレタッチ。光の反映としての「事実」が、ささやかな改変でまったく違った結果を引き起こします。人の顔をほんのちょっとスマートにしたり、色味を変えるだけで印象が全然違ってくる。それはバルトの論じた「写真」の範疇に入るものなのか。そして現代のイメージの氾濫。

しかしまあ、この本は古き良き写真のあり方を実に上手く捉えています。バルトの好きな写真についての、バルトの現象学的な記述を読んでいると、こんな写真っていいよなあ。自分もこんな風に好きになれる写真があったらいいな。自分にもこんな写真が撮れたら、と思いました。そんな読後感を持てただけでも、読んだ甲斐がありました。良書だと思います。
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