2009年5月8日金曜日

認識論とか存在論とか

哲学系です。

歩きながらつらつらと考えごとをしていて、ふと、なぜ認識論なのかな、という問いが浮かびました。

認識論ってのは「そもそも認識とは」「分かるとはどういうことか」を問う哲学の1ジャンルです。アリストテレス、デカルト、ヒューム、カント、フッサールあたりでその問題意識が濃厚ですが、基本的にはほとんどの思想家、哲学者が少なくともかすって通る領域です。言語学やら論理学も微妙に絡んでるといっていいでしょう。といっても「何で認識論なんだ?」という問題意識は普通は分かりにくい。ぐだぐだ考えてないで食ってみればいいじゃねーか。頭で考えたってしょうがない。

昔ハイデガーを論じたなんかの本で、認識論とはすなわち存在論だから・・・という一節があって、よく分からないなりに自分への回答としていたのですが、やっぱり消化しきれていなかったようで、今更ながら「なぜに認識論か」という問いが浮かんだようです。

私的には認識論は(生半可な理解ですが)現象学にとどめを刺す、と思ってまして、実際に普段も現象学的な方法を使ってます。といっても別にわけのわからないこざかしいフレームワークを使うわけではありません。平易な言葉にすれば、何かに取り組む時に「どうして私はそのように考えたのか」「どうして私はそう理解しているのか」という問いを立てていったん反省して時系列に事象を整理してみるってこってす(※)。

つまり認識論って別に形而上的・衒学的・特殊な趣味の世界な訳ではなくて、私にとっては結構実践的な方法に利用できる実学だと思ってます。認識論を念頭に置いていったん反省しないと、偏見やら誤解から抜け出すのが難しい。すなわち認識論を踏まえるってことは「正しい認識に近づく」近道なわけで、そういう意味で認識論が大事なのは間違いがない。ということで「認識論は大事である」という結論はいったん出ました。うん。自分で納得してどうする。

そろそろウルトラマンが帰る時間になってきたので中止します。本当はこれから認識の枠組みとしての5W1Hについて述べて、Whyという問いの重要性に向かい、アリストテレスの四因説を述べて「理由」を理解することの大事さを確認し、いわゆる学校の5教科では「理由」への問いが封じられているのではないか、いや、学校の勉強だけじゃなくて、普段の生活からWhyという問いが失われていないか、という線で書きたかったのですが、時間がないので。

(※2009/7/10追記)
今思えばこれは現象学的方法ではありませんね。
いったん対象(この場合は想念)を保留して、それが経験的妥当性(しかも個人的な妥当性)を持つかどうかを反省していますが、現象学は個々の経験を問題にすることはないので、せいぜい足掻いて「経験的現象学」とでも言いましょうか。

以上。
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