2009年5月11日月曜日

著作権とか

かなりきわどいキーワードだと思うんですね。著作権って。でも二つの良記事を見つけたので、これは一言書きたい、と思いました。でも、ひょっとしたら論点は著作権じゃないかもしれません。

コンテンツの搾取は環境破壊と同罪 (NIKKEI NET IT+PLUS)

「アナロ熊」が暴いてしまった「地デジカ」の秘密 (日経ビジネスONLINE)

前者はコンテンツクリエーターからの搾取を何とかしたい、すなわちちゃんと公正にコンテンツクリエーターにお金が入る仕組みが重要だ、という主張です。まことにもっともだと思う。こういう人がこういう角度からちゃんと正論を語るのは貴重だし重要です。

後者は地デジカにまつわる無粋さとセンスのなさをあざ笑う、軽快で溜飲の下がる記事です。

両方とも面白く、正しいと思えるんですが、微妙に後者の方に感情移入できます。前者は確かに正しいと思う。やっぱりクリエーターが苦労して作ったものが、違法にアップロードされて無料でその内容が享受されるべきではない。ちゃんと作った人にお金が入る仕組みが必要だ。激しく同意する。でも、気持ち的には後者なんだよなぁ。見てもらってナンボやないかい。やたら禁止して、見れなくしてどうする。と。

難しいですね。

私の違法コンテンツ運用を述べると、youtubeで何気に最近のアニメなどを検索していくつかヒットを確認。あ、これは違法アップロードだ、と気が付きつつ、まあいいことではないわな、などと思いながら子供に見せてしまうような意思薄弱気味の人です。罪悪感付き。ゆえに、最近の「いっそ違法アップロードされたコンテンツを意図的に見た人も有罪」法律は支持します。それだったら胸張ってレンタルビデオ屋で数百円払うよ。オレは。というスタンスです。

これは、自分で表現をしているかどうかっていうところも関係する気がしますね。私もほとんど読まれてないんだろうなーなどと思いつつも、眠る時間と酒を飲む時間を削ってこうして一生懸命文章を書いている。これは自己慰安の目的もありますが、やはり書かずにはいられない業(ゴウ)というか、とにかく書いてしまいたいという衝動があるわけです。いわゆるクリエーターも、こんな衝動があるはずだ、と。すなわち金が欲しいから作ってるんじゃなくて、やむにやまれぬ衝動があって何かを作ってるんじゃないか。そんな風に理解できてしまう。だったらそのコンテンツ、タダで見せろよ。見てやるよ。みたいな。となると、下手に見せないよりもどんどん見せた方がいいじゃねえ?という発想は近いわけです。

でも、表現手段が文章ってとこでまた違うのかもしれないな、という気がします。これは後者の意見に対するアンチテーゼになるかと。小田嶋 隆氏は、「無料で読まれて私にどんな被害がある? 」と主張するわけですが、それはやはり文章という媒介だからそう言えるんじゃないか。どういうことかと言えば、絵画などビジュアルなものを単純にコピーされて二次配布されるのと、文章を二次配布されるのとでは違うんじゃないか、と思うのです。

文章というのは、究極的には万人(と言わずとも大多数の人)から受け入れられ、あー全くそう。その通りだよね。いいことを言う、と褒めてもらうものが、すなわちよい文章です。褒めてもらうまでに時間がかかるかもしれませんが。すなわち、よい文章というのは誰にも得心できるような、当り前のメッセージだ、ということです。人多けれど想念少なし(by ミラン・クンデラ)。当たり前のことを言って褒められるんであれば、別に誰に読まれたって構わない。真似されたってしょうがない。

ところが音楽やら絵画やらになってくると、そうはいかないのかな、という気がします。絵筆ではもう真似できないようなものが、簡単にコピーされてしまう。メロディーが簡単に複製されてしまう。そうなると手塩にかけた自分の分身が、凌辱されているかのような気分がするのかもしれません。

また、文章で商売している人に対する羨みやっかみ恨みもあるかもしれません。私もこうして頑張って無料で文章書いてますが、文章売って小遣い稼ぎくらいしたいなあ、なんて心の端では思いますし、こんな文章が売れるの?と呆れることもある。すなわち、そんなコンテンツに金払わせるな、と。

複雑ですねー。まあしかし、苦労して作られたコンテンツにはちゃんとお金を払われるようなシステムが、結局のところいいんじゃないかな、と思います。岸博幸氏支持に一票!

まあ私もいつかは売れるような文章が書きたいな、と。そんなところで。
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