2009年6月24日水曜日

「ソシュールを読む」丸山圭三郎 岩波セミナーブックス

★★★★★☆:一点突破の思想は大好物です

読みました。やっぱソシュールすげー。

コトバが指している実体なんてない。あるのはコトバ間の差異だけ。差異が意味を決める。ってことは神も金も人間も存在しない。アカギタカシついに狂ったか。いやいや。果たして狂っているのは誰でしょう。金に狂ってる人間。宗教に狂ってる人間。政治に狂っている人間。世間や会社という共同幻想に狂っている人間。何が正しく、何が狂ってるんでしょうね。ってまあほどほどにしておきましょうか。

しかし一笑に付されるのも悔しいので、例えば私にとって極めて強いリアリティを持つ「娘」という言葉について考えてみます。

ソシュールによれば「娘」ってのはシーニュ(記号)であって、それはシニフィアンとシニフィエが不可分に合体したものです。シニフィアンというのは意味しているものでシニフィエってのが意味されるもの。ただしここで要注意。シニフィエってのは、シーニュが指す実体ではないんです。存在するのはシーニュのみ。シーニュにシニフィエが含まれている。すなわち「娘」というシーニュにシニフィアンとしての娘とシニフィエとしての娘が含まれている。そしてシーニュは、非息子/非自分/非他人としてネガティブ(否定的)に定義されているに過ぎない。娘というシーニュそれ自体が存在するわけじゃない。

でもおれの娘はおれの娘だ。実際にそれ自体として存在してるじゃないか。そうじゃない。娘ってのはシーニュなんですってば。膨大なシーニュの体系すなわち文化や制度、それから個人的な歴史が積み上がってあなたにとっての「娘」というシーニュが出来上がっている。すなわち娘とは差異の体系に織り込まれたシーニュに過ぎない。娘が娘である(娘の同一性)というのは娘というシーニュが反復可能である、その一点にかかっている。「娘」というシーニュに付属する重みやリアリティってのはまた別の働きなわけ。もうついて行けない?まあいいです。それが普通ですよ。

言語は人間の持つ科学やら思想やら宗教やら文化やら、要するに動物的ではない人間的なるものすべての基礎になっている。言語と欲望が社会を作り出した、と。うむむ。なるほどねえ。と感心することしきりでしたね。
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