2010年6月30日水曜日

受験餓鬼か受験菩薩か

故あって(大した故じゃないんですけど)ある資格試験を受けようかと一念発起したんですけど、ふと気がついた。

受験を受けることってのは、仏教的にどうなんだろうか、と。

受験。試験。どうにも餓鬼の営みとしか言えませんね。

みんな、救われるんだ。善人ですら往生できる。どうして悪人が往生できないということがあろうか。親鸞聖人ならそう言います。

蜘蛛の糸だって、カンダタが蹴落とさなければ皆救われていたかもしれない。

でも、試験は違う。採点し、比較し、合格させ、不合格とする。

人間という愚かででどうしようもない生き物が、既得権益を持った、あるいは制度に与したそれだけの理由でもって、人を試し、点数を付けて、いい方から悪い方に並べて評価するわけです。お前はダメだった。お前はイイ。なんて。

そんなひどいことはない。

  合格した人間は甘い汁を吸い、不合格の人間はルサンチマンと貧困の海に沈む。(少なくとも合格/不合格の直後はそうね)

まさにあさましい修羅の世界です。争いの世界です。

花の世界にたとえてみましょう。花を面接して、評価します。これは楽しい。

桜。おまえは春の風情がよい。よって合格。しろつめ草。お前はどうも地面を這ってるし、地味だから不合格。

いやいや。そうじゃないでしょ。しろつめ草の草いきれなんていいもんだよ。懐かしい、小学生時代の夏休みに連れてってくれるよ。

みんな違ってみんないい。どの草だって、どの花だって、生きているだけで素晴らしいんだよ。

  まあキレイゴトですかな。

でも「みんなちがってみんないい」がキレイゴトだとすれば「お前合格、お前不合格」は余りにもキタナイゴト。

私はキタナイゴトよりキレイゴトの方が素晴らしいと思う。

となると、これは困った。資格試験などクソ喰らえ。そんな結論になるわけです。

困ったので考えを変えてみます。

たとえばイチロー。

    極端は承知。

イチローが、プロ野球、メジャーリーグという超競争社会で成功しているのはどうしてでしょうか。

才能、努力、そして縁。そのあたりが理由だ、とそういうことにしておきましょうか。

彼の成功を測るものさしは、あくまで野球のルールです。

しかし、彼の成功は素晴らしいと思う。なぜか。彼を個人的に知る訳ではありませんが、求道者というか「おれはおれ。他のことは知らないよ」というストイックな姿勢が感じられる。

つまり、他と競争しているわけじゃない。(たぶん)

周りを蹴落としているわけじゃない。

少しでも過去の自分を乗り越えようと努力している。

これは、やはり尊敬してしまうな、と思います。


さあ、困った。

競争自体は忌むべきものだ。人間の尺度で人間を評価する。不幸な人を作ってしまう。

でも、求道的な態度というものがあって、それは人をして尊敬せしむる。

ということはですね、周りは関係ないのだ、と。人の尺度など気にせず、ひたすら無意味な試験に没頭する、それは決して端的に否定されるべきものでもないのかな、と思うわけであります。(肯定されるべきでもないんかもしれないですがね。)

何とか肯定したいと思いつつ、とりあえず以上。

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