2010年7月4日日曜日

哲学には他者問題っつうのがありまして

他者問題ってのがあるんですね。哲学には。

どういう問題かと言うと「自分ってのが存在してるのは分かる。でも、どうして他者が存在していることが分かるのか」それが他者問題。

それが哲学上の一つの大問題になっている。

  アホか?

    と思うでしょ。はい。あなたは正しい人です。

  哲学者ってのはいったい何やってるんだ。

    頭に来るでしょう。そう。あなたは正しい人です。

まあ、とりあえず哲学側の主張を聞いてみましょう。

中世あたりに行きます。デカルトさん。一生懸命考えて、究極の疑いえぬ真実に至った。

 「我思う。故に我あり」

それが出発点。疑いえぬ真実。

 - 実はキリスト教の魂が強烈に前提されているのですがね。なにが懐疑だ。キリスト教前提にしてるじゃねえか、と。ま、それはさておき。

しかし、なんでその事実が他人に理解できるの?他人に理解できることを期待して書いてるんじゃないの?どうしてそんな期待ができるの?「我思う、故に我あり」これを否定する人がいたら、どうすんの?ということがしばらく捨て置かれていた。数100年後。

フッサールの現象学が出てきます。なぜ人は確信するのか。そして、その確信のいくつかは、どうして普遍的に受け入れられるのか。で、意識というものの構造を一生懸命考える。

それでいろいろ意識について述べるわけです。それに対して疑問が出てくる。普遍的な意識の構造があると言ってるけど、それはどうして?なんで他人にそれがあると言えるわけ?他人がいるように見えるけど、どうして意識の構造が他人にあると言えるの?

  私も書いてて嫌になってきた。どうしてこんなアホなことにかかわっているのか、と

結局「個」を神格化してるんですな。人間は霊魂なんだ。神がお作りになった個々の霊魂だ。そういう前提に立っている。なんでいっぱい霊魂があるんだ。こうして暮らしているんだ。神様を持ち出せば片付く(ライプニッツのモナドロジー)。でも哲学はあからさまに神を持ち出すわけにはいかない。だから考える。どうして他者がいると分かるのか。説明しなければならない。

「個」などないんだよ。般若心経で言えば、不生不滅だ。あるのは全体だけだ。確かに個は生まれ、滅する。しかし、生命そのものは生まれることもなく、滅することもない。

そう思えば解決する。

みんな同じなんだ。

犬だって、魚だって、背骨があって、肺があって、心臓があって、肝臓があるんだ。

犬だって、魚だって、背骨を打ち振ってのたうちまわっていれば、苦しいんだと分かる。同じ生き物なら、無条件でわかる。

みんな同じなんだ。

とりわけ「他者」を立てる思考が、間違ってるんだ。

他者が問題となりえる西洋思想は、どこか根本的に間違ってるんじゃないか。相対化されねばならないんじゃないか。とそんなことを思うわけです。

しかも、この思考は知らず知らず日本人の思考に食い込んで来ている。無自覚だとヤバいんじゃないかとも思います。自己責任だとか役員が高額報酬貰って平然としているとか、どうも西洋的な人間観に毒されて不味いことになってるんじゃないか。そんな気がしてなりません。

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