2010年7月6日火曜日

宗教は強い

最近仏教に目覚めたわけです。

きっかけは秋月龍珉さんの禅の本。ワリと理論的にアタマで考えるタイプだった私は、秋月さんによって仏教の入口に立ってみようと思うことができました。その背中を強烈に後押ししたのはひろさちやさんの本。

現在、私は仏教的な人間になっています。

仏教的な人間と何か。独断と偏見によると、それは仏教に触れて世界観が変わった人間である、と私は断言するものであります。

では、仏教とは何か。

それは、私にとっては、岩波でも読める「ブッダのことば」であったり、般若心経であったり、嘆異抄であったり、無門関であったり、正法眼蔵であったり、ひろさちやさんの本であったりします。

人が仏教に触れるとどうなるか。

世の中のウソが分かる。世の中のでたらめが分かる。

昔から、世の中どうもおかしいんじゃないかと思っていました。でも、はっきりとは言えなかった。周りに言っても表面的には同意するものの、突き詰めて考えてる奴なんて誰もいない。どうも「世の中がおかしい」というのは大声では語れない種類の言葉である。困ったなあと思って生きておった。

そうしたところ、仏教関連の本を何気に読んでいて分かったんですね。やっぱり世の中おかしかったんだ!と。

たとえば金。金が大事だと皆が言う。そりゃあ大事だけど、それほど大事かね。家族のためには金が大事だと言ってお父さんは社畜になる。金のために社畜になるお父さんを見て、なるほど金は家庭や自分(お父さん)の娘よりも大事なんだ。自分の健康も、時間も、家庭も犠牲にしてまで得る価値がある。それが金。だったら金は大事なものに違いない。そう思って娘が売春をして金を稼ぐ。お父さんがあんなに苦しんで金を稼いでいる。だったら私も苦しんで金を稼いでどこが悪い。体を売って何が悪い。息子は「おれも社畜になるのか。なりたくない」と将来に絶望して引きこもりになる。家庭が崩壊する。金が大事だといって社員を働かせ、社員の家庭を破壊し、契約社員を都合よく使い、一億稼ぐ経営者がいる。しかも、その経営者は別の理由で苦しんでいる。金があるからといってちっとも幸せじゃない。あるいは貧困に順応させられる子供たちがいる。彼彼女たちには何の責任もないのに、自転車も買ってもらえず、おやつすら満足に食べられない。

世の中を見れば、批判する人間もいるしこれでいいんだと許容する人間もいる。どうにも歯切れが悪い。評論家、政治家、適当なことばかり言っている。

こと金に関しては「金なんか大事じゃねえだろう」と叱れる人間がいない。だって人間だもの。

しかし、これが仏教の方から見てみると実にスッキリ。「金なんかどうでもいいだろう。全部寄付しろ。そしてお前の足元を見ろ。今、ほら。その場所がお前の極楽なんじゃ」と。あ、そうだよね、と思うわけです。いくら「金が大事」「いや大事じゃない」と頭の中で仮想討論やってたって、ムダなわけです。毒矢が刺さっているのに抜くこともせず、その毒矢は誰が打ったんだろう、何の毒なんだろいう、と悶々としていれば、そのうち空しく死んでしまうだろう、と。とにかく抜け、と。とにかく金なんかありがたがるのをよしちまえ、と。まことに明快。スッキリ。

これが、仏教の力(の一例)だ、と私は思います。

そんなの思考停止じゃないの?

止めていい思考と、止めるべきではない思考があるとおもうのです。

金という毒矢が心にささっていて、その毒矢が娘を売春に駆り立てる、お父さんを社畜に縛り付ける、そんなことがあるとしたら、まずは何も考えずに抜くに限る。そう思うのです。

私は。


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