2009年1月19日月曜日

「甘えの構造」を読んだ

「甘えの構造」(土居健郎)を読みました。

以前から少し気にはなっていたのですが、ちょっと古いかなーと思って何となく読む気がしなかったところ、図書館のリサイクルコーナーでゲット。よし、と思ったもののはやり読む気しないなーと半年以上積読(つんどく)状態でした。そこに先日「ボリビア日記」を唐突に読了したこともあって、何か読むものないかなーと思って書棚を漁っていたとき「甘えの構造」発見。よし。今だ。

で、3日ほどで一気に読了しました(私の読書は主に通勤中に行われるので、長~中篇の本に三日間かけても「一気に」という表現になります)。

【総評】

(プラス)

「甘え」という非常に豊かな概念を(厳密さは欠けるものの)可能性とふくらみを持つ言葉として見事に分析している。示唆に富む分析です。発展性と普遍性があり、いろいろ考えさせられる。

養老孟司木村敏への影響が感じられる。

(マイナス)

本書の背景として「戦後」を思わせる事柄が多く、時代を感じます。

例えば「欧米コンプレクス」「学生運動に参加する若者の分析」「何かにつけ欧米の文化や思想と日本を対比させる二元論」など。

それから欧米感も少し古い感じ。自我の確立とか西洋の「自由」概念とか。

結論として「『父』が不在である」とか「子供化する社会」というのはなんというか(当時は新しかったのかもしれませんが)今になって見るとありがちでいまいちな感じがしました。

(その他)

「甘え」というのは本当に便利な概念だと実感しました。その便利さゆえに慎重になる必要はあるにせよ。

技術の分からない上司が、技術に詳しい部下に接するときの態度。全幅の信頼。深夜の電話。まさに「甘え」の状況がそこにある。そしてそうやって上司に「甘え」られることに「甘える」部下がいる。(甘えられない部下は不幸なことに鬱病になるでしょう)

「甘え」の対象と非対象、それすなわち「ウチ」と「ソト」。少し組織が大きくなると、その内部にウチとソト意識が生まれ、セクショナリズムが生まれる。それもまた「甘え」。しかもネガティブな意味で。この「ウチ」と「ソト」(=味方と敵)の考えは女性に顕著(断言するのに微妙に罪悪感ありつつも経験上幾度も実感している・・・)ですが、男性も例外ではない。

あるいは吉本隆明の言うところの「育ち」の問題。「育ち」というのはすなわち「ちゃんと甘えられたかどうか」ではないか、と。「甘えられなかった」ということは、自分が「十分に愛する人から受け入れられている」ということを実感できなかったことに他ならないかもしれません。

確かに「愛」と「甘え」は違うかもしれない。でも愛されていた小さな子供であれば、十分に甘えさせて貰えることができたんじゃないか。十分なスキンシップを得られなかった=甘えさせてもらえなかった=愛されなかった、そう刷り込まれた子供は、目に見えぬ傷を負うことになる。

あるいは「2ch」で時折見られる弱者へのバッシング。「甘えんな!」というスローガンは、本当は甘えたいんだけど甘えられない、そんな人の怨恨に過ぎない。

カリスマを作り出し、支持するマスコミと大衆。裏には「甘える」対象を生み出したい欲望があるんじゃないだろうか。

「甘え」。深いです。
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