2011年4月23日土曜日

本日の晩酌(4/23) + 思索

まずは第三のビール、EURO HOPS。
そして、黄桜300mlです。こいつはぬる燗より熱燗が美味いですな。本日はわたしが食材を仕入れ、調理を行うため、購入が黙認されております。

夕食と共にこれを頂いたのち、紙パックの「谷の越 純米吟醸酒」、オーシャンラッキーなど頂きます。飲みすぎ一歩手前を目指す愚かな酒呑みである。

  ぎりぎりを、限界手前を攻めるのだ!! < いや、酒と競争して勝った人間はおりませんから。

などと、半分酔った頭にて。
ここ数日考えていた大乗仏教の「空」の思想について、つらつらと。

大乗仏教は、無とか、空とか言うんですな。

般若心経然り、わたしの好きな禅しかり。

しかし、「一切は空しいのだよ。空だ」「無だ。無」などと言われても、すっきり飲み込めない。

空しさとは何か!などと考えてみる。

何が空しいか。と言えば、現実って空しいなあ、などと言われますね。

現実。

英語にすると、actualityとreality。

分けて翻訳できる。

actualityってのは、そこでピチピチとアクトしてる、と。今、とにかく動いている。
realityってのは、リアルである。ありありと、実在感を持っておる。

英語圏では、この二つが分かれる。
日本語では曖昧ですな。強いて言えば現=actuality、実=realityか。

ということは。

actualityのないrealityがあるか。
realityのないactualityがあるか。
などと考えてみる。

actualityのないreality。
これはね、例えば「夢」がそれじゃないかな、と。
何だか分けが分からないけどリアルで困る。迫ってくる。これがrealityという現実。

realityのないactuality。
これは、なかなか考えるのが難しい。
現実感(reality)のない(actualな)我が子、現実感(reality)のない(actualな)酒を考えるのは、なかなか難しい。

そうなんですね。
「現実感(realityの方)を喪失する」精神的な病があるくらい。離人症とかね。つまり、肝心なことに対するrealityを失ってしまうと、生きるのが大変なわけ。それが病として診断されてしまうわけ。

  ま、realityとかactualityの議論って木村敏さんのアレンジなんすけどね。

で、いわゆるところの「空しい」ってのは普通、「なんかとっても大事だと思ってたら、こんなもんだったのか。空しー」とか思うところの「空しさ」ですね。

つうことは「リアリティをガンガンに感じていたところのアクチュアルが、実はたいしたものじゃなかった」と気がついた、そういう状況ではなかろうか、と。

realityのない人生は考えられませぬ。

しかし、大乗仏教はそこを突き詰める。全ては空しいと。

realityのない人生は考えられない。しかし、それを捨てろ、と。一回、無にしてみろ。

そうか。と思ってrealityを無にしてみたら、気がつく。おや?空しいのが、本当だったのか?
「reality」のために一生懸命生きて来たと思ったら、いや、そんなの無だろ。と。
realityなんか、無だった。

でも、それはちょっとツラいよな。
酒が美味い。いや、酒なんか空しいだろ。
子供が大事だ。いや、子供なんか空しいだろ。

そりゃ、ある意味そうかもしれないけれど、そこまでして生きたくもないよ、と。

だったら生きたらいいじゃないか。全力で。

一回、全力で空になった後に、全力で生きる。これが大乗仏教の真理なんじゃないか、などと考えたりもします。

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