2010年12月30日木曜日

高円寺行ってきた

古着屋とかエスニック系ファッションのおもしろい店はないかしらと思いながらWebをつらつら見ていると、高円寺が面白いらしいという情報を発見しました。

そうか。高円寺か。これまでの人生で聞いたことのない地名です。しかしまあ、試しに行ってみっか。と12月のある日に行ってみたんです。エスニックではありませんが、それなりに変テコな服着て。

西武線で新宿。新宿から中野。中野から一駅。中野駅のホームで寒風に吹かれながら乗り換えの電車を待っていると、なぜだかワリと「遠いところまで来てしまった感」がありますね。近くて遠い街、高円寺。その都心からの絶妙な距離感が、高円寺という独自の場所を醸し出しているのかもしれません。

とにかく中野から一駅。JR高円寺の南口を出てすぐに気がつくのは商店街が元気なこと。人通りが多い。若者が多い。若者といっても大学生以上って感じですね。それから渋谷原宿と違ってあからさまな欲望はあまり感じられなかった。アートとかファッションとかその辺にこだわりがあるっす。という雰囲気でしょうか。わたし的には結構しっくり来ましたね。若者が多かったけど、落ち着いて散歩できました。

古着屋も小奇麗な店から何だか怪しい店まで様々。一日来てぶらっと歩いただけですから、あまりコアな店までチェックできていないのですが、ジャンクから本格物までいろいろありそうです。足を使えば掘り出し物や気に入った服が探せそう。これは楽しい高円寺。

2時間ほど街を歩いて、4千円ほどのパーカー(妻によればそれなりに名の通ったブランドらしい)、千円のドイツのトレーナーを購入(いずれも古着)。まずは安くて楽しいショッピングでした。

ある意味では一昔前の秋葉原のような感じですかね。もちろん訪問する人の種別はまったく異なります。そのターゲットも片やパソコン電化製品、片やファッション関係と大きくことなりますが、そのモノへのこだわりと「お買い得」商品を楽しむ感覚には共通点がありそうです。結構ディープな高円寺という街。じっくり馴染んで行きたいと思えました。

古着は楽し

うさと服によってファッションに目覚めてしまったわたくしですが、最近は楽しく古着系の店を巡っています。

古着のどこがいいか。まず価格に惹かれますね。例えば人が何年か着た5万円の服が1万で手に入る。5万円の服だから、やはりモノがいい。流行に左右されない型の服や、面白系の服なら今でも楽しく着ることができる。大変リーズナブルだと思います。ものによっては10万円は下らないような服が1万円で手に入ったりするのもまた楽しからずや、です(ま、勝手に「これは10万円は下らないだろう」と思い込んでるだけってのはありますけどね)。

わたくし、普通のPコートや普通の革ジャンといった定番系の服やアメカジ(よく分からないけど)があまり好きじゃありません。エスニックとか変わった型、模様の服が好き。となると、どうしても定番系の回転が多くなる古着屋では、必然的に選択肢が限られてくる。なかなか当たりにはめぐり逢えない。それでもデパートやユニクロでやたら高い服や、仕掛けられた流行の服を選ぶよりは数倍も楽しいですね。たまに面白い服に出会えると、嬉しさもひとしおです。

この間、池袋の古着屋を回っていて店員さんと話をしたんですが、その話がやはり面白い。皆さんファッションに哲学がある(当たり前かもしれないけれど)。自分はどのようにファッションに関わっているのか。はっきりした(それでいて押し付けがましくない)人生観をお持ちになっておられる。なかなか好感が持てます。

ということで、まだまだしばらくは、楽しく古着屋を巡っていることと思いますね。

帰省2010冬

今年もいよいよ大詰めです。11月から12月にかけて公私ともに忙しかった。仕事が忙しいというのは(独り言:その忙しさの原因と質にはいささか批判的ではありつつ)ありがたいもので、日本経済が先行き怪しいなか、しばらくの間は不景気を忘れることができました。もっとも忙しいからと言って給料が上がる訳ではないのですがね。時給換算では暇してる方が割がいいの。

ま、そんなこんなでやってまいりました大晦日。今年は特に、無事に年を越せたなあ、という感慨がありました。何でかっていうと、40を越えた知り合いとか知り合いの知り合いの方が、ボツボツ逝去されるんですな。幼稚園児、小学生のお子さんを残して。さぞかし無念であろう。悔しいであろう。胸が締め付けられるほどよく分かる。

普段仏教やら哲学に親しんでいるせいで、死についてはワリと考えている方だと思いますが、それにしても理不尽なことだ、と思います。しかし思っても詮ないこと。死すべき個体は、全力で今を生きるしかないのです。そう思って身を引き締めていると、やはりこの年越しというのはありがたいものだと思われます。マンネリと言えばマンネリ。死ぬもんかと思っていれば退屈かもしれないけれど、今年も無事に家族一緒に生きて来られた。この当たり前の事実を有難く噛み締める。すると何とも深い年越しが味わえるというわけ。

そういえば義母がちょっとした事故で骨折したことがありました。いわゆる「軽傷」の部類に入るのでしょうが、数週間家事に不自由して大変難儀をされておられた。そんな義母が時折しみじみ言った「当たり前のことが、ありがたいんですよ」という言葉を思い出します。

当たり前の年越し。しみじみと、有難く、過ごさせていただこうと思います。

2010年12月24日金曜日

朝からオムライス

朝からオムライスを作ってみました。いやあ、大変だった。作り初めて5分で後悔したけれど、途中で辞めるわけにも行かなかったので、作り通しました。

何が大変かっていったら材料を切るあたりです。面倒くさいのなんの。朝起きてやる最初の仕事がコレか。と。やはり、夕方にしっかり腰を据えて作る料理だわ。まあ、淡々と刻みましたけどね。


ま、なんとか完成。卵が柔らかくなりすぎましたけど、ケチャップライスの味自体は美味かったので、まあ及第点です。

ファッションの効用

この間、古着屋がその辺りにあるということで池袋の繁華街に行ったんです。北口の怪しいあたり。

で、地図を片手にブラブラ探していて思った。やはりちゃんとした身なり、おしゃれをしていない人をあそこで見かけると、ハッキリ言って身の危険を感じますな。だらしないカッコした人がふらふら歩いてくるだけで怖いよ。マジでヤ●ザさんじゃないかしら、と思います。いわんや、いわゆるヤンキーファッションをおいてをや。ビビるよ。親子でヤンキースタイルかよ。殺気に満ちた池袋北口。勘弁してください。ホントに。

結局古着屋さんはなかったし。いやはや。

ま、ともかく、ファッションには、やはり相手にリラックスしてもらうという明らかな効用があるようです。身をもって知りましたわ。

2010年12月23日木曜日

西田哲学めも

ただ「否定」と提示されると、論理的には単に肯定の反転であるわけです。

しかし、現実的には

否定=嫌い

ってのが近い。否定ってのは意志の力だ。全力でするものだ。机上の論理じゃない。頭でこねくり回したコトバじゃない。心から嫌いと思う、それが否定。

そうでしょ?

最初に戻る。

A=Aってのが肯定だ。

A=非Aは否定。

論理的にはそうなる。

そして、

「A=AかつA=非A」とは、論理的には矛盾となる。

さて、否定は憎しみ。否定は嫌い。また、肯定は是認であり、肯定は好意である。

その常識的な、情動的な理解を、論理に持ち込んでみる。つまり、肯定とは「好き」であり、否定とは「嫌い」である。これを論理の世界に持ち込む。

かつ、ここで、西田哲学の、絶対矛盾的自己同一を考えてみる。

しかるに、

絶対矛盾的自己同一とは、絶対に否定しつつ、絶対に肯定する、ということである。

ということは、

絶対に嫌いだけど、絶対に好きだ、それが絶対矛盾的自己同一ってことになるじゃないか。

なんだか凄く良よく分かる気がしてしまうなあ。

要するに西田哲学ってのはダイナミックなんですよ。固定してない。取り澄ましてない。うごめいている。全力で、生きている。

12/24後記
と酔っ払って書いたようですが、まあ、当たらずとも遠からずってとこですかね。

エロスとタナトスとの矛盾とか、愛と憎しみの矛盾とか、そういうモメントは西田哲学に含まれるとは思うのですけどね。

2010年12月22日水曜日

鳥牛豚つみれ鍋、タコのやわらか煮、タコ飯

鳥挽き肉ベースに牛豚挽き肉を少々入れてみました。単なる思いつき。


昆布と出汁パックで出汁を取ります。あとは野菜を投入して薄めに醤油、塩して煮るだけ。



手が空いたらタコのやわらか煮に取りかかります。比較的安かったので前回固くなってしまった件のリベンジ。しっかり20分圧力を掛けました。今回はなかなか柔らかく仕上がりました。無事成功です。やれやれ。


鍋は相変わらず簡単ウマー。ただ、牛豚入りのつくねは若干臭みがありましたね。美味かったけど。次回は鳥100%で行こう。



残ったタコは、出汁ごとタコ飯として翌朝頂きました。思ったよりも薄味になりましたが、なかなかウマーでした。

2010年12月21日火曜日

タア菜のにんにく炒め、きのこクリームパスタ

きのこをバターと菜種油で炒めて、香りが出てきたら小麦粉を馴染ませておいた牛乳を300ml程度投入。あとは水とスープの元を入れます。軽く煮立ったら薄切りにした鳥胸肉を入れてふたをして火を通します。塩コショウで味付けしたら完成。


それから生協の近郊野菜パックに入っていたタア菜。にんにくと生協の牡蠣味調味料で炒めてもう一品。


なかなか美味かったです。

作るものと作られるもの

難解な西田哲学ですが少ーしずつ分かってきた気がします。

例えば作るものと作られるものについて。作られたものが作るものになる。

そう言われると、例えばわたしという存在は親によって作られた存在なわけですが、これがまた親になると子を作るようになる。つまり、作られた存在としてのわたしが、作る存在になる、とまあ簡単に解釈していたんですが、この解釈はミスリードなことが分かってきた。

そうじゃなくて、むしろ人間には環境を改変する力があり、その改変された環境によって人間も作られる、そんなダイナミックな関係があるのだ、と解釈したいですね。

また、作られたものというのは、必然的に過去のものですね。「作られた」もの、つまり過去形なんですから。その過去が「作られた」ものとして現在を限定しにくるわけ。でも、過去ってのは「ない」わけ。あるのは「現在」しかないから。じゃあ、その「ない」はずの過去がどうやって現在を限定しに来るのか。実は、ここにある「過去」ってのはすでに現在なわけですね。作られたものとして、現在にある「過去」。その過去(=現在としての)が現在を限定する。つまり、現在が現在自身を限定する、という絶対矛盾的関係がそこにある。

そして、そのような存在は必然的に表現的たらざるを得ない、と西田さんは続けます。どうしてかというと、過去はあくまで潜在なわけですね。その「潜在」としての過去が、現れる。現在とは表現の場所である。

過去が現在として現在を限定する。そんなダイナミックなあり方を西田哲学は語るんですけど、これって凄いじゃありませんか。フッサールの時間の考え方にしても、やはりどうも直線的な考え方に近い。沈殿とかね。しかし、西田哲学の語る時間は、本当に生きられる時間だと思う。

おもしろいっすよ。

2010年12月20日月曜日

今更ながら 猫の恩返し 見た

いいですね。楽しみました。ジブリも二世とかじゃなくて、こんないい映画を撮った人を使えないのかしら。うーむ。

確かにアリッティも悪くなかった。でも、正直凄くはなかったよ。猫の恩返しの方が「凄い」。二世より、力のある人に金をつぎ込むべきですよ!!

再びおでん


おでんです。今回はちょっと薄かったなあ。オイスターソース入れるから、と油断した。

やはり出汁はしっかり取るのが正解のようです。美味かったけどね。

2010年12月16日木曜日

韓流アイドルに思う

天才てれびくんに出ていたKARAという韓国アイドルグループに夢中のわが子たち。そうか。天てれにも韓流アイドルが出る時代か。と感心しました。一昔前は韓国って遠い国でしたね。遠いというか関心が向かない。私の身近に韓国の人がいなかった、ということもありますが。あるいは、むしろ「在日」などと言って差別の対象だったりしますね。残念ながら今でも。

しかし、こうして韓国のアイドルが入ってくるのは基本的にはよいことではなかろうか、と思います。地理も近いし経済交流もある。あっちにはいろいろ恨みはあるのでしょうが、若い世代に移り変わりながら、よい方向に向かったらいいんじゃなかろうか。

ただ、なぜ韓流?という疑問はあります。韓国のアイドルがどいうしてわざわざ日本に来てるんだ?日本も不景気で勢いがないのに。韓国のアイドルが活躍することで、日本のアイドルのシェアが奪われているということもあろう。

ということで、妻と話したりしてちょっと考えてみました。

一つはやはりプロデューサーというか仕掛け人みたいなのがいて(電通?)韓流アイドルを売り込んでいる、ということ。なぜ電通がそうするのかまでは分かりませんけどね。多分商売になるからでしょう。

もう一つは残念ながら日本のアイドルに魅力的な人材がいないからではなかろうか。

一昔前の(今でも現役ですが)安室奈美恵みたいな強力な人材がいないんじゃないか。妻によれば「KARAはダンスがカッコいい。ちゃんと芸がある」とのことです。日本語もちゃんと話してるしね。ひるがえって日本のアイドルに「芸」をもった人材がいるのか。(って偉そうでだしお前はどうなんだと言われると返す言葉もなくて申し訳ないけれど)AKB48とKARAを比べたら、どうにも後者の方が光って見えるわな。比べる方が悪いのか、売り出す方が悪いのか。

まあ、そんなこんなで、よく分からないけど芸能界も硬直化しちゃってるんじゃないかねえ。だってAKB48だぜ?おっさんの産物でしかないやんか。既得権益というか、いわゆる「大物」みたいなのが仕切っているが故に、活力が失われている、そんなことがあるんじゃなかろうか、などと愚考したり。

2010年12月15日水曜日

多即一、一即多

西田哲学の多即一、一即多が分かったような気がしました。

考えてみれば、生物なんてのは数十億の細胞という「多」の「一」じゃないですか。すなわち、多即一、一即多とは個としての生物に他ならないわけで。あるいは地球規模で考えた時の「生命」だって、個としての生命が生まれ、生み、死んで行く、その一連の流れに支えられた統一である。すなわち多即一、一即多なわけです。

この一と多との関係ってのは、絶対にお互いが相容れない。私という存在は毛髪細胞ではないし、肝臓を構成する細胞でもなければ、皮膚の細胞でもない。逆に各々の細胞は私という存在ではない。しかしながら、無数の細胞が「私」というものを構成している。絶対に相異なるものが、統一されている。だから絶対矛盾的自己同一なわけ。考えてみれば自然なことなのですな。

その統一がどこにあるかと言えば「一」にも属さないし「多」にも属さない。そういう意味で「無の場所」において成立するというのが西田哲学の肝ではなかろうか、と思うのであります。さあ。面白くなってきた。

2010年12月14日火曜日

Ubuntu geditの「開く」ダイアログで邪魔なフロッピーアイコンを消す

Ubuntu 標準エディタのgeditなんですが、開くダイアログになぜかフロッピーアイコンが表示されていて、うっかり突つくとエラーポップアップが出て結構神経に触るわけです。フロッピーなんか使ってないよ!

というわけで消す方法。

$ sudo vi /etc/fstab
[sudo] password for XXXX:

して、

/dev/scd0 /media/floppy0 auto rw,user,noauto,exec,utf8 0 0

の行を以下のようにコメントアウトするだけ

# /dev/scd0 /media/floppy0 auto rw,user,noauto,exec,utf8 0 0

です。

鳥つくね鍋

鳥つくね鍋です。まずは鳥挽き肉、ネギとにんじんのみじん切り、片栗粉、卵、塩、醤油、みりんを混ぜます。多少ユルくても全然大丈夫。


それから昆布とにんじんを鍋に入れて弱火でとろとろ。


野菜どっさり。


完成。これまた簡単ウマーだったです。

2010年12月13日月曜日

多摩川で釣り

普通は晩秋~冬には釣りに行く人は少ないです。寒い季節は概して魚の活性が低く、敢えて釣ろうというのなら腕前と慣れと根性がいるから。やはり釣りはシーズンに行くべき。しかし、考えてみると、これまで何度か発作的に釣りに行ったのは、なぜか釣れない時期であることが多い。何でかなあ、と思い返してみたら、釣りのシーズンというのはピクニック、おでかけシーズンでもあり、外に行ってお弁当食べるだけで楽しいのですな。特に「釣り」などというイベントを設ける必要はないわけ。ただ外に行ってお弁当食べるだけで楽しいわけ。だから、敢えて釣りに行かなくてもダイジョブなわけ。

ということで、最近あまり外出できていないため、イベントを設定して敢えて外出しました。すなわち、釣り。釣れないのは覚悟の上で多摩川へ。また、私は気合を入れるためにてフライフィッシングの入門セットを敢えて購入致しました。

このあたり、難解(イミフ)な論旨ですが、わたし的には筋が通っているのです。要するに、最近子供を連れて外出してないから、外出の理由づけが必要。ということで、外出イベントとして「釣り」を、しかも自分には「フライフィッシング」というムチャ振りを課してみたわけ。そうでもしないとテンションが上がらないから。しかも妻は体調があまりよろしくないのと、用事があるため留守番。大人一人、子供お二人というかなり厳しいシチュエーション。カモン?って感じ。

さて。冬の多摩川で何が釣れるか。小物エサ釣りならクチボソとかハヤあたりは何とか期待できるかも。フライフィッシングでは、理論上はハヤとかオイカワ、コイあたりがイケるのでしょうが、土地勘も経験も少ない私には釣果がほぼ絶望的。まあ、そこは覚悟の上で、フライロッドを振る練習と割り切りです。子供には何とか魚を釣らせてやりたいなあとは思いますが、子供も釣れることは期待していない様子でした。これまで数回釣りに行ったけど、一度も釣れなかったからね。坊主(一匹も釣れないことをこういう)には慣れてる模様です。

ということで、釣りです。妻にはおにぎりとちょっとしたお弁当を作ってもらいました。まずは新宿へ。相変わらず混雑している新宿駅を、二人の子供の手を引きながら気がついたやや痛恨のカメラ忘れ。しょうがないね。釣れたら携帯でお魚の写真を撮ろうね。と上の子がなぐさめてくれました。

小田急線に乗り換えて、多摩川付近の駅に到着。案外近いんじゃない?少なくとも昭和記念公園よりは近そうだぞ。これは通えるかも。心強いことに釣り人さんは結構大勢いらっしゃいました。もっとも、皆さんヘラ歴ウン十年とか鯉歴ウン十年とかいったツワモノぞろいのようでしたが。

しかしざっと川を眺めたところ、どうも手近なところに魚の気配はなし。近くに小物の魚影が見えて欲しいんだけどなあ。子供にも扱えるようにということで、わが家の竿は短い。あまり奥は攻められないのです。魚が明らかにいないところに釣り針を入れてもなあ。

ま、しかたがない。何はさておき仕掛けを竿に付け、練りエサを付けて川に投入。ウキを眺めながらおにぎりを食べました。しかしまあ、正直釣れる気はしませんでしたね。気配で分かる。見れば分かる。仕掛けのあたりに魚がいないもの。子供も、さっさと釣りには見切りを付け、川沿いで探検ごっこ。川にだけは落ちるなよ、と幾度も厳重注意。一応着替えは持ってきましたし、小学生+川で遊ぶと言えば足踏み外してドボン事故が当たり前なので、平常心で対応したいものの、その後の苦労を思えばやはり落ちてほしくはない。

その後数時間。やはり当たりはまったくありませんでした。私は黙々とフライフィッシングの練習&ときおり練りエサのチェック&交換。子供はひたすら河原で遊んでいました。フライを振り回す私の周りでドタドタ走ったり、仕掛けを絡ませたり、私の服に針を刺してみたり(取るのに凄い苦労した)、イライラすることもありましたが、ふと空を見上げれば多摩川の秋晴れ、広い空。ゆったりと流れる多摩川。怒るなんてもったいない。清々しいいい気分を満喫。

魚の気配がないまま、15時頃に竿じまい。駅でおやつにお団子を食べました。そう言えば周りのヴェテランおじさんたちを見てもさほど釣れている気配はなかったから、わりと暖かかったとはいえ釣れない日だったのでしょう。でも、子供は川のそばで一日遊んで充分楽しかった模様。また釣りにこようね。今度は絶対釣ろうね。と帰りの電車の中で誓い合ったのでした。

肉じゃが、タコの煮物

肉じゃが。今回は牛肉を使ってみました。オージービーフが安かったので。やはり牛肉は一味違って美味かった。


それからタコの柔らか煮。圧力を掛ける時間が短かったからか、周りは柔らかでしたが芯がすっげー固かった。味は美味かったし、子供にも人気だったから良かったけれど。次回はしっかり圧力を掛けようと思いました。(でもタコって意外と高い。滅多に買えないんですよね)

2010年12月10日金曜日

カレーとほうれん草炒め

カレーが食べたくなってカレーを作りました。材料はナスと挽き肉。何の変哲もない、普通のカレーです。後はほうれん草のにんにくオリーブオイル炒め。





美味かったです。

2010年12月9日木曜日

エビゾー狂騒曲

政治家にしろ伝統芸能家にしろ、二世はダメだというのは明らかとしか。灰皿テキーラだとか無銭飲食だとか、なんだそりゃ。

芸能界ってのは暴力と金が支配する場所ってのを、あからさまに見せつけたのが名門歌舞伎俳優ウン世。いやあ、お見事。

エビゾーをめぐる人々の知能を疑うようなコメントを見ても、呆れるほかはない。(呑まなければいいヤツだ、とか、エビゾーが手を出したはずはない。なぜなら、エビゾーが手を出したとすれば、手を出された方がのされていた。しかるに、エビゾーに手を出した奴はのされていない。ゆえにエビゾーは手を出していない。とか、エビゾーが病院で毎日過去の行いを悔いて号泣している、だとか。いまどきマンガですら採用されないコンテンツじゃなかろうか)

生まれながらにして名声と報酬を手にした二世の悲哀か?冗談としても苦笑いしか浮かばない。

やれやれ。

2010年12月8日水曜日

葛西臨海水族園、焼き鳥

行ってきました水族園。なかなか家族の体調や都合が合わないがために、どうしてもワリと手近なところになりますな。とはいえ練馬からは結構遠い葛西臨海公園。本日は一計を案じて、子供にサンドウィッチを作らせてみました。親は朝食の準備片付け、お化粧(妻)と、やはり何かと忙しい。親がイライラと準備している時にハイテンションな子供に騒がれるのも精神的によろしくない。おまけにランチも出来上がるから安くて楽しい。ということで、一石三鳥、子供サンドイッチです。

サンドウィッチ、無事完成。ハムとレタスとチーズとツナとバターを手配して、バターをパンに塗らせ、具を挟ませただけですけどね。でも、大きくなったなあ、と少し感慨深い。子供たちも満足そう。



そうこうしているうちに到着。



お弁当を子供に作ってもらうと、ラクだわ。私はさすがにビールではなくホットコーヒーで頂きます。この季節、ビールよりもホットコーヒーが美味いね。と子供の作ったサンドをつまむ。



あまり混雑しておらず、リラックスして楽しめました。




帰って雑用を済ませたら夕食の支度。本日は焼き鳥です。まず鶏肉を蒸して、タレに付けて、グリルで炙りました。確かにうまかったけどいわゆる「焼き鳥」とは別物。どうしても焼き鳥屋の味にはなりませんでした。どうやったらあの味になるんだろう・・・




以上

2010年12月7日火曜日

コピス吉祥寺行った

コピス吉祥寺というのは最近出来たという複合商業施設です。吉祥寺の商店街の真ん中にあります。

吉祥寺来訪のそもそもの目的は妻の冬用コート物色だったのですが、妻が「大変疲れを感じるので私は寝る」ということになり、特に目的もなく私が吉祥寺に子供を連れて行くという、よく分からないおでかけになってしまいました。

ということでできるだけ頭は使いたくないおでかけ。こだわりなし。ジャンクカモン。昼はマックでハッピーセット。どうでもええよ。というコンセプトでのおでかけ。

最近ようやく自転車に慣れ始めた下の子を従え、30分ほど自転車を漕いで吉祥寺。何とか駐輪場を確保してコピス吉祥寺に入りました。子供には今回のおでかけの予算は3000円である旨を宣告。したがって昼食が2000円として、残り1000円。二人で分けて500円以内であれば好きなモノ買ってよろしい、と許可。子供の物欲を制御するのが面倒くさいというのがホンネです。

で、コピス。地下が食品、スーパー系。上にファッション、雑貨、書籍のフロアがある模様。まずはチャイハネチェック。うん。基本的に若い人向けのものが多く、私には厳しい。ジャンクっぽい感じもあるし。たまにイケそうなのがあるから、チェックは欠かせないんですけど、今回は特に惹かれるものがありませんでした。子供たちは天然石アクセサリーに夢中。値段を見ると500円前後から。なるほどね。中高生あたりからターゲットになってるわけ。

それから本屋を通り抜けてキャラクターグッズのフロアへ。本屋は通り抜けただけですが、詩とか文学評論とか、コアな本が目に留まりました。品揃えはかなりマニアックそう。今度ゆっくりチェックしたい。

キャラクターグッズはサンリオ系とかリラックマとかスヌーピーとかそんな感じです。その後マックで昼食(子供はハッピーセット、私はビッグマックとコーヒー)を済ませ、再びコピスへ。下の子がスタンプセット、上の子が定規とノートを買いました。それから家で寝ている妻に、ドイツパン屋さんでケーキを買って帰りました。

とりとめもない感じでしたが、ユルく過ごせた休日です。コピス吉祥寺もそんな感じかなあ。ユルい感じのショッピングモールでしたね。ターゲットは中学生~40才手前まで。目を吊り上げて行くような場所ではありません。何気に寄って何気に帰るような場所ですね。東京駅の地下街をセンス良くした感じ。また行ってもいいかな、と思える場所でした。

2010年12月3日金曜日

西田哲学の「一般者」

西田さんの哲学論文を読んでつまづくところはいろいろあって、それはもちろん理解できてないから、という理由が大きいのですが、その中に「一般者」なる概念があります。

普通に読んでいると、まず個がある。そして一般がある。個とは、つまり各々の人生を生きている人間と考えてよいかと思います。それに対して普遍的一般者というものが立てられる。最初わたくしは、この一般者を「普遍的意識」のようなものと解釈してみたんですな。カント、フッサールの超越論的意識と言ってもいい。要するになぜだか皆が持っている共通の意識構造、それが西田哲学の普遍的一般者なのではないか、と。

しかし、そうじゃない。その解釈だとすぐに行き詰まってしまいます。ここが西田哲学の難しいところ。どうやらこの普遍的一般者なるもの、キリスト教の神とか禅の無とか、その辺に抵触する概念のようです。とは言いつつも、一神教の神と禅がどうやって折り合うか。西田哲学の一般者とは、スピノザ的汎神論とも違うし、当然ハイデガーの「存在」概念とも違う。東洋的無が入っている。また「一即多多即一」といった即非の論理も入ってくる。非常に難解です。

最近少し分かってきたのが絶対矛盾的自己同一。考えてみれば当たり前なんですね。われわれの存在とは、普遍と個という矛盾の中にある。生命って存在と無の矛盾なんです。刻一刻細胞は入れ替わり、意識も移り変わっている。それを「生きるために必要な誤謬」としての「自己」が統一している。生命とは生滅と不生不滅との絶対矛盾的自己同一なわけ。ということはすなわち、般若心経なわけ。なかなかおもしろいでしょう?

そんな感じで一歩一歩のんびりと読み進んでいます。

2010年11月30日火曜日

念珠買った



この間電車に乗っていて、席が空いたので有難く座らせてもらったんですが、両隣がガタイのいいオッサンサラリーマンで、非常に窮屈だった、ということがありました。チキショー。痩せろや。などと思いながら肩をすぼめて本を読んでいたんですけど、ふとそのオッサンを見ると、左手にブレスレッドを付けていたんですね。これがわりとオシャレな感じで和んだ。何だか浮ついてない感じ。これってアリかも。

妻に話を聞いてみたり、Wikipedia:腕輪念珠で調べてみたら、どうやら最近流行っているそうですね。パワーストーンなどと称して。そう言えば若い子が付けてるのを見て、何だ?若さに似合わず仏教徒か?などと思ったことがあります。

というわけで、最近仏教に生きているわたくしも、せっかくだから買ってみよう。オシャレアイテムにもなるしな。とばかりに仏壇仏具屋に行って買ってみました。すると結構並んでたんですね。おしゃれアイテムとして買ってく人も多いみたい。店員さんもなれた感じでお勧めしてくれました。わたしとしては、パワーストーンとか何とかご利益系を期待するのはあまり好きではないので、木の材質をチョイス。ファッションアイテムとしては地味ですが、妻に見せたところ評価まずまずで一安心。

いや、アクセサリというか、勝手仏教徒としての心意気というか、付けているとなかなか気分がいいもんです。こういう内面から盛り上げてくれるのもまた、古来からのファッションの意義なんでしょうね。

2010年11月29日月曜日

おでん!

おでんが美味いぞおおお!クックパッド万歳ですわ。たまに本当に簡単で美味いレシピがあるんですね。

まず、ちゃんと出汁を取ります。レシピは「本だし」だけど、家にそんなものないから。昆布と出汁パックってやつでふつふつと出汁を取って、まずは大根、にんじん、ゆで卵、砂糖をテキトーに投入。具材が崩れるので絶対に煮立たせないこと。ゆったり熱いお出汁に浸かってもらう感じです。この段階では、出汁も味も薄くて大失敗の、単なる不味い煮物。でも、大丈夫。


こんにゃくを二分ほど茹でてあく抜きして、がんも、さつま揚げを湯通しします。頃合いを見計らって鍋に投入。あとはジャガイモと里芋を圧力鍋で柔らかくしておきます。この段階でも、薄くて不味い。でも大丈夫。


里芋、ウィンナー何かも入れたりして、さらに弱火で具を浮かばせます。ジャガイモは煮崩れていたので投入せず。さあ、役者は揃った。ここでオイスターソースを大さじN杯投入です。水3リッターにつき大さじ4杯分も入れたかな。あとは薄口醤油と砂糖と塩で味を整えます。あとはふつふつと具を泳がすだけ。


んで、トータル3時間。サイコーに美味いおでんの出来上がり!ジャガイモはマッシュして粒マスタードとにんじんと黒コショウをたっぷり入れて、大人のポテサラにしました。これもまたんまかった。


あれですね、コツはたっぷりの出汁、オイスターソース(が含む「味の素」)、煮立たせないこと、そして具を熱い出汁に浸けておく時間。今回は3時間かけて作りました。

以上。

2010年11月26日金曜日

暴力装置とか何とか

政治家が組織を名指しして「暴力装置だ」と言ったとしたら「いや、お前(とお前の組織)もな」と私は思う。ほとんど当たり前のことです。それが「大きな」失言として扱われることの方を怪しく思う。

自衛隊とは暴力装置である。その通りじゃないですか。いささか発言者ご自身の立場と空気が読めてないことは否定できませんが。自衛隊の大砲からハトでも出るんですか。銃は何のためにあるの。眉をひそめたって現実は現実。銃があるのは、ウサギを狩るためだけじゃない。見えているものから目を背け、見たいものばかり見ていると、いつかだまされてしまいます。

警察だって暴力装置です。暴力を振るってもよいとされている公的組織。冤罪の被害者だったら100%首肯すると思われる。

暴力をフィジカルなものに限らないとすれば、税務署だって暴力装置ではなかろうか。裁判所だってそうでしょう。自分は被害者だ、国に何とかして欲しいと思っていても、そうではない、と裁判官が判断する。そこで受ける精神的打撃は、暴力によるものと等しい。

もう一つ言えば、政治組織にだって暴力装置という側面があるでしょう。政治は時に弱者を犠牲にして強者の味方をせざるを得ない。弱者が受けるのはやはり暴力。無力な個人に襲いかかる、暴力です。

しかしながら、暴力=悪という図式も成り立たないと私には思われる。残念ですけど。世の中そんなに簡単ではない。心の強くない人間(要するにほとんどの人間)は暴力に頼りたい。暴力に頼る人が多いから、暴力をちらつかせる商売が成り立つ。暴力が組織化され、権力を持つ。いや、暴力団に限った話ではありません。無名の個人が「会社」を盾に行う暴力的な活動の例を上げればキリがない。

程度の差こそあれ、組織というものは暴力装置とならざるを得ないと私などは思う。

というわけで何だかキレイごとを言ってるなあ、と思えてしょうがないんですが、この程度の失言でやられるってことは、もう言われる方にもスキだらけなんじゃないかね、とも思える。

さて、唐突に話が変わって、存在感を増すみんなの党。怪しいんだよなあ。誰か大物(大組織)がプロデュースしている気がしてならない。小泉の時もそうだった。こういう政治的混乱の最中に頭角を表してくる人(組織)には、要注意だと、小泉がトントンと総理大臣になったときのことを思い出しながら、私などは考えてしまうのです。

論点がシンプルになり、敵が明確になる。そうすると、波に乗った人には実に好都合。ヤバイ主張がマスコミの煽る「怒り」に隠れるからね。もう騙されないぞ。と思いながら慎重に見守るしかありません。

西武遊園地

行ってまいりました。西武遊園地。侘び寂びあふれる遊園地。縄のれんと熱燗と煮込みが似合いそうな遊園地。すなわち場末。

しかし、今日は違った。おお!どうした。何があった。人が並んでるじゃないか。こんな西武遊園地初めて見た!


さては、われわれと同じくプリキュア・オールスターショウ目当てか。恐るべしプリキュア!恐るべし大友(大きなお友だち)!と思っていたら、何の ことはない、西武遊園地60周年記念ということで入場料が60円だったんですね。

へえ。60円なら来るんだ。これだけ人があつまるんだったらさ、ずっと 60円でいいんじゃないかな。と思ったのはわたしだけではあるまい。正規料金ではほとんど人は行かないと思うよ。高いもの。ウチもチケットはオークション で買うし。ま、いつも60円だとありがたみもないからってのはありそうですが。西武遊園地も、入ったからには乗り物に乗ってけとばかりに乗り物ビンゴシー トなど作って配っていました。やるなあ。見直したぜ西武。(誰かの入れ知恵ですか?杉山さん。)


さて、プリキュアショウの会場に向かいます。まだ開演まで1時間以上ある。でも、嫌な予感がしたんです。西武遊園地といえども60円フェア。しかもプリキュア。そしたら思ったとおりですわ。もう会場はシートで一面に覆われていました。われわれもかろうじて見える場所にシートを引くことができました。通路すれすれ。危なかった。しかしスゴいねえプリキュア。


正直これほどとは思わなかった。家族がメリーゴーラウンドに行き、場所取り要員として取り残されたものの、暇つぶしツールは一切持ってきていなかった。分かっていれば西田幾多郎哲学論集を持ってきたのに。しょうがないので上の子の持ってきた大長編ドラえもんを眺めて暇を潰しました。皆が戻って来たら、手作りのおにぎりと焼きそばを食べて昼ご飯。

そうこうしているウチにプリキュアショウの開始です。後ろの子の邪魔にならないように私はシートから退散。人だかりの後ろから皆さんを観察。うん。思ったより大友さんは少ないですね。さすがに着ぐるみショウだと、よほどコアなファンしか来ないのだろうな。それは何となく分かる。すなわち逆にコアなファンがいる、ということ。いましたね。動画を望遠レンズでばっちり撮影して、その場でPCに取り込み、チェックしているとか、コスプレしてるとかね。スゴいなあ。と感心。あれだけ打ち込めるものがあるってのは、微笑ましいですな。イヤミじゃなくて。大友さんたちの楽しそうな様子を見るのも、ワリと楽しい。

次々と歴代プリキュアが現れる中、やや歓声が大きかったように思えたのは、意外にも先代のフレッシュプリキュア。なるほどねえ。そうかもしれない。

思えばわたしくしがプリキュアシリーズを見始めたのは、スプラッシュスターの最後の方で、その頃はもうラスボスと戦う寸前だったから、戦闘シーンしか印象に残っていません。むしろ、次のプリキュアファイブが一番印象が強い。いろんな(ステレオ)タイプの女の子が出ているところも分かりやすい。ゴレンジャーみたいで。ストーリーも超分かりやすい熱血学園ドラマだしね。次のフレッシュプリキュアは、妻が比較的気に入ってました。カオリちゃん(だっけ)とか、なんか洗練されてる気がするらしい。確かにエンディングのムービーとかアニメばなれした感じでしたね。あとストーリーも分かりやすかった。

そんなファイブ、フレッシュに比べると、今のハートキャッチはちょっとアヴァンギャルドというかはっちゃけてるし、敵も人間の弱さに食い込んでくるあたりがちょっと暗い印象もあって、難解ですな。なぜか宇宙に行ったりしてるし。というわけで、フレッシュプリキュアが人気なのは分からないでもないなあ、などと思いつつ、ビールを飲みながら観察してましたわけです。すると、当たり前だけど体が冷えた。もう年だね。残念。味を楽しむどころじゃない。次回はウィスキーのコーヒー割を持ってこようと心に誓う。


後はチケットがある限り乗り物にのって、おうちに帰りました。メリーゴーラウンドとか観覧車とか。とにかく驚いたのは、人が並んでいたこと。だってさ、夏に行ったらメリーゴーラウンドなんか貸切ですよ。マジで。誰も乗ってないもの。列って。ありえないし。正直、西武沿線住民としてはうれしかった。

なかなか充実した一日でした。